ストーン・リバー:2014年6月
2014-06-30T09:22:03+09:00
sayamaziken
冤罪・狭山事件の再審開始を!
Excite Blog
2014連続講座第3講
http://burakusabe.exblog.jp/20860331/
2014-06-30T09:22:02+09:00
2014-06-30T09:22:03+09:00
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sayamaziken
2014年6月
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茨木のり子「それを選んだ」
http://burakusabe.exblog.jp/20858060/
2014-06-29T16:30:38+09:00
2014-06-29T16:29:53+09:00
2014-06-29T16:29:53+09:00
sayamaziken
2014年6月
退屈きわまりないのが 平和
単調な単調なあけくれが 平和
生き方をそれぞれ工夫しなければならないのが 平和
男がなよなよしてくるのが 平和
女が溌剌としてくるのが 平和
好きな色の毛糸を好きなだけ買える
眩しさ!
ともすれば淀みそうになるものを
フレッシュに持ち続けてゆくのは 難しい
戦争をやるより ずっと
見知らぬ者に魂を譲り渡すより ずっと
けれど
わたくしたちは
それを
選んだ
「天声人語」茨木のり子の平和
2014年6月22日05時00分
「現代詩の長女」と呼ばれた人は、そのとおりに戦後の女性詩人の先頭を歩み続けた。東京の世田谷文学館で開かれている「茨木のり子展」(29日まで)を訪ねて、戦時の体験に裏打ちされた平和への意志に触れる心地がした▼代表作の一つを、いまは亡きご本人の朗読で聴くことができる。〈わたしが一番きれいだったとき/街々はがらがら崩れていって/とんでもないところから/青空なんかが見えたりした……〉。大正15年に生まれ、敗戦のときは19歳だった▼いくつかの詩を読むと、男というものの手前勝手にふと思いが及ぶ。およそ戦争も紛争も、大人の男が始め、大義だの正義だのを振りかざし、大勢の女性や子どもを巻き込んでいく▼〈退屈きわまりないのが 平和/単調な単調なあけくれが 平和/生き方をそれぞれ工夫しなければならないのが 平和/男がなよなよしてくるのが 平和/女が溌剌(はつらつ)としてくるのが 平和……〉▼ともすれば淀(よど)みそうになる平和を、フレッシュに持ち続けてゆくのは難しいと、この詩は続く。そのとおりだろう。やがて退屈に倦(う)み、なよなよした男に苛立(いらだ)つ人が現れて、どこからか勇ましい声が響きだす▼中東でもアフリカでも、眺め回せば地球のあちこちで男が武器をもてあそぶ。米英仏中ロの大国も、戦争を仕掛けたり首を突っ込んだりしてきた。そうした中で日本の戦後をふり返ってみる。殺しも殺されもしなかった不戦の歳月を、誇りとしない政治があるとしたら不思議である。
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「大逆」の精神、いずくにありや?
http://burakusabe.exblog.jp/20854063/
2014-06-28T09:46:00+09:00
2014-06-28T09:51:16+09:00
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sayamaziken
2014年6月
5月27日、高円宮家の次女・典子さん(25)と出雲大社宮司の長男・千家国麿(せんげくにまろ)さん(40)が婚約。
6月8日、三笠宮崇仁(たかひと)の第2男子で、現天皇のいとこに当たる桂宮宜仁(かつらのみやよしひと)が、急性心不全のため死去。
6月27日、天皇と皇后が10回目の沖縄訪問をし、 「対馬丸」生存者・遺族と懇談。
以下は、「TBSニュース」の一部だ。
悲劇から70年。両陛下は、犠牲者の慰霊のため、沖縄県を訪問されました。対馬丸事件で家族11人を失った津波古ヒサさんは、両陛下の訪問前の取材で複雑な気持ちを語っていました。
「天皇陛下バンザイって言って亡くなった人がいるんですよ。だから、私たちにとっては、天皇とか、あんまり持ち上げてこうやるっていうあれじゃないですね」
訪問前、「複雑な気持ち」を明かしていた津波古さんも、遺族として両陛下と言葉を交わしました。
「本当に優しいっていうか、心がこもっているっていうか、感動しましたね。少し変わりましたね、気持ちが。だから、何回でも(沖縄に)いらっしゃったら、また、みんなの気持ちも違ってくるんじゃないですかね」
「犠牲者にとっても、また遺族にとっても、(両陛下の今回の訪問が)ひとつのケジメになるんじゃないかなというような感じがいたしますね」(対馬丸記念会 高良政勝理事長)
●皇族に関するニュースが切れ目なく続く。その一つひとつが社会的・政治的な意味を持つことは言うまでもないが、私たちの意識の深層にくすぶる「天皇制」を呼び覚ます。始末が悪いことこの上ないが、ことほどさようにこれがニッポンコクの今なのだ。
天皇がカミであったかの時代、菅野すがはその本質を喝破したがゆえに、冤罪に陥れられ、死刑判決を受け、縊り殺された。それから100年、何が変わり、何が変わらないままなのか?自問は深いため息となる。]]>
三鷹事件、三者協議を前に
http://burakusabe.exblog.jp/20850845/
2014-06-27T10:41:00+09:00
2014-06-27T10:50:29+09:00
2014-06-27T10:41:27+09:00
sayamaziken
2014年6月
メディアを含め、情報提供(公開)をきちんと行い、積み上げ、世論を喚起することなくして司法を動かすことは難しいだろう。地道にこれをやり続けることが肝心だと思う。見習うべきことはある。]]>
ビリー・ジョエル、怒涛のライブ
http://burakusabe.exblog.jp/20849208/
2014-06-26T20:53:55+09:00
2014-06-26T20:54:05+09:00
2014-06-26T20:54:05+09:00
sayamaziken
2014年6月
1964年、ニューヨークのクイーンズ地区に≪シェイ・スタジアム≫が誕生した。MLBニューヨーク・メッツの旧本拠地としてだけでなく、フットボールやプロレスの会場として親しまれてきた。そして1965年8月15日、人気絶頂だったザ・ビートルズが、史上初の球場コンサートにして、当時最大の屋外ライブを行ったのも、ここ≪シェイ・スタジアム≫だ。その後も、有名バンドが次々とコンサートを行い、音楽ライブのメッカとしても親しまれるようになった。2009年2月をもって取り壊され、最後の公演を飾ったのが、ビリー・ジョエルだった。
1.Prelude/Angry Young Man(プレリュード/怒れる若者)
2.My Life(マイ・ライフ)
3.Summer, Highland Falls(夏、ハイランドフォールズにて)
4.Everybody Loves You Now(エヴリバディ・ラヴズ・ユー・ナウ)
5.Zanzibar(ザンジバル)
6.New York State Of Mind (with Tony Bennett)(ニューヨークの想い(w/トニー・ベネット))
7.Allentown(アレンタウン)
8.The Ballad Of Billy The Kid(さすらいのビリー・ザ・キッド)
9.She's Always A Woman(シーズ・オールウェイズ・ア・ウーマン)
10.Goodnight Saigon(グッドナイト・サイゴン 〜英雄たちの鎮魂歌〜)
11.Miami 2017 (Seen The Lights Go Out On Broadway)(マイアミ2017)
12.Shameless (with Garth Brooks)(シェイムレス(w/ガース・ブルックス))
13.This Is The Time (with John Mayer)(ディス・イズ・ザ・タイム(w/ジョン・メイヤー))
14.Keeping The Faith(キーピング・ザ・フェイス)
15.Captain Jack(キャプテン・ジャック)
16.Lullabye (Goodnight My Angel)(眠りつく君へ)
17.River Of Dreams/A Hard Days Night(ザ・リヴァー・オブ・ドリームス/ア・ハード・デイズ・ナイト ★ザ・ビートルズ曲)
18.We Didn't Start The Fire(ハートにファイア)
19.You May Be Right(ガラスのニューヨーク)
20.Scenes From An Italian Restaurant(イタリアン・レストランで)
21.Only The Good Die Young(若死にするのは善人だけ)
22.I Saw Her Standing There (With Paul McCartney)(アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア(w/ポール・マッカートニー ★ザ・ビートルズ曲))
23.Take Me Out to The Ballgame(私を野球に連れてって)
24.Piano Man(ピアノ・マン)
25.Let It Be (With Paul McCartney)(レット・イット・ビー(w/ポール・マッカートニー ★ザ・ビートルズ曲))
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前進?足踏み?
http://burakusabe.exblog.jp/20844851/
2014-06-25T12:50:53+09:00
2014-06-25T12:50:42+09:00
2014-06-25T12:50:42+09:00
sayamaziken
2014年6月
解放新聞の記事を読んでいつも思うことだが、いわゆる「客観報道」過ぎてはいないかと。これなど、商業新聞にそのまま掲載されても何の不思議もない内容だ。やはり、「解説」なり「コメント」をつけるべきではなかろうか。とても物足りないと思うのは私だけだろうか?]]>
「マヤコフスキー事件」
http://burakusabe.exblog.jp/20837670/
2014-06-23T09:45:00+09:00
2014-06-23T10:06:30+09:00
2014-06-23T09:45:21+09:00
sayamaziken
2014年6月
ウラジーミル・ウラジーミロヴィッチ・マヤコフスキー(1893年- 1930年)は、20世紀初頭のロシア未来派(ロシア・アヴァンギャルド)を代表するソ連の詩人。
両親共にコサックの出で、グルジアで生まれる。1906年に父親が亡くなると、家族と共にモスクワに移住。そこでマルクス主義文学に傾倒するようになり、またロシア社会民主労働党に加わるようになる。その後ボリシェヴィキのメンバーとなるが、このため3回逮捕される。投獄中に詩作を始め、バイロン、シェイクスピア、トルストイ、アンドレイ・ベールイ、コンスタンチン・バリモントなどを読む。釈放後モスクワ絵画・彫刻・建築学校に入学。数年後に政治活動を問われて中退するものの、そこで後にロシア・アヴァンギャルドを担う芸術家たちと邂逅することになる。
1912年に処女詩集『社会の趣味への平手打ち』を出版、その中に所収された「夜(Ночь)」「朝(Утро)」は政治的なメッセージを持ち学校を中退する原因となる。1915年にリーヤ・ブリックと結婚。第一次世界大戦では兵役に志願するも断られ軍の自動車学校に勤務、十月革命を目撃し赤軍に参加した水兵を鼓舞する「左翼行進曲」を発表する。マヤコフスキー以前のロシア詩は、シラボ・トニック韻律法が盛んだったが、マヤコフスキーは別のリズムを作り出し、日常語や俗語、奇抜な言葉づかいを導入した。
革命後は風刺劇『奇怪なる喜劇』(1918年)で好評を博し、共産党のプロパガンダポスターの制作にも関与。評論や映画シナリオも書いた。1923年に芸術左翼戦線(レフ)を結成し、ソ連初期の芸術界をリードした。だが、ヨシフ・スターリンが主導権を握ると共に彼も体制に幻滅感を抱き始め、1930年にモスクワの仕事場でピストル自殺を遂げた。
これは「ウィキペディア」からの引用だが、マヤコフスキーと言えばこうした紹介がされているのが一般的だ。本書「マヤコフスキー事件」は、この紹介文の最期の「自殺」に関わる検証がメインテーマとなっている。
マヤコフスキー、「愛と革命の詩人」としてその名をかつて聞き、詩集を買い求めた記憶が蘇る。蔵書のほとんどは「処分」し、残っているものはほんのわずかだが、「マヤコフスキー詩集」は手放すのが惜しまれた1冊だ。
結論から言えば、彼は「自殺」したのではない。死への道を強いられ、当局によって死に至らしめられたのだ。「自殺」との公式発表のいかがわしさ、まとわりつく疑問、証言などを丹念に読み解き、結びつければ、その真相が浮かび上がる。
ソビエト革命とその後の変転のなかで、詩人の運命は翻弄されるが、彼自身も自らの行く末を認識しつつ、それを受容していったような気がする。差し迫る身の危機をやり過ごす術は知っていたはずだが、あえてその道を取らず、まっすぐに進んでいくことを選び取った。そこに待ち受けるのがなんであろうと。
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「清冽」より
http://burakusabe.exblog.jp/20834410/
2014-06-22T10:24:57+09:00
2014-06-22T10:25:00+09:00
2014-06-22T10:25:00+09:00
sayamaziken
2014年6月
「清冽」(著:後藤正治)には、著者やゆかりの人が茨木のり子さんの印象を語っているが、それらを連ねると、彼女のイメージが鮮やかによみがえり、息遣いが聞こえてくる。いくつか拾ってみる。
●なんてきれいな人なんだろう―それが第一印象であった。茨木は40代半ばであったが、中川にはそう見えた。宝塚の男役のごとく、女性としては背丈があってすらっとしている。問いかけると、じっと考えてからゆっくり返事が返ってくる。口調と仕草を含め、なんとも初々しい感触が伝わってくる人であった。(中川美智子/書籍編集者)
●写真で残る10代の茨木は端正な顔立ちの美少女であるが、ラブレターを一度ももらったことがないと語っている。男の子たちは、この少女の全身に充満したる「裂帛(れっぱく)の気合」に怖れをなしたせいもあるのか。
●そんなころに、茨木さんも訪ねてくださったのですが、戯曲を書きたいという意思をしっかり抱いた固い蕾という風情がありました。たしか紫の大きなリボンで髪をまとめられていた。宝塚の男役になられたら一世を風靡すると思うような、息をのむほどの美しさでした。端麗というのでしょうか、ひたむきに求めるこころが表情にあらわれていて、そういう深いところからくる美しさは、いま、茨木さんのなかでますます磨き上げられているように感じます。(山本安英/女優)
●遠い日のこと。仙台に住む土佐林の母方の祖母が世田谷の家に滞在した日があった。祖母は謡が趣味であったが、茨木は祖母の前できちんと正座し、微動だにせずに聞き入っていた。謡の世界を全身で吸収したい。そんな意欲がひしひしと伝わってくるのである。姿勢のよさ―。土佐林美和にとって、茨木のり子の姿として付着してあるものである。
●人はだれもなにがしか天賦のものを授かってこの世に現れてくる。茨木のり子の場合、詩才もさることながら、それは自身に忠実に生きんとする姿勢への意志力であったように思える。
●背丈があって目を引くほどの美人でしたね。躾の良さがにじみ出ていて、折り目正しいし人柄もいい。彼女がいるならおもしろいかと思った。ただ、あまり色気は感じなかったがね。(谷川俊太郎/詩人)
●岸田に映っていた茨木は、まず「行儀のよさ」である。茨木は人妻であった。ただし、岸田の言い方を借りるとすれば、「絵描きや詩人たちはそんなことにはおかまいなしに言い寄る人たち」でもあって、色恋沙汰には事欠かぬ世界である。ただし、茨木にはその種のことはなかった。茨木のもつ凛としたたたずまいがその種の触手を引っ込めさせたのである。(岸田衿子/詩人)
●岸田は茨木を「古代ローマのギリシャ彫刻に見るような」と表現したことがあるが、それは茨木の端正な顔立ちとともに、その人に宿る精神的な気質を込めた表現であった。
蛇足だが、その容貌・醸し出す雰囲気は、映画「ハンナ・アーレント 」でアーレントを演じたバルバラ・スコヴァを想起させ、芯の強さ・切れ味は、アーレントその人と重なるように思う。]]>
茨木のり子年譜
http://burakusabe.exblog.jp/20831071/
2014-06-21T09:14:29+09:00
2014-06-21T09:14:46+09:00
2014-06-21T09:14:46+09:00
sayamaziken
2014年6月
●図録から年譜を拾う。
1926年、大阪府で生れる(父・宮崎洪、母・勝)。
1931年(5歳)、医師であった父の転勤により1931年京都移る。
1932年(6歳)、愛知県西尾市に移る。
1943年(17歳)、上京し帝国女子医学・薬学・理学専門学校(現・東邦大学)薬学部に入学。
1945年(19歳)、学徒動員で海軍第一療品廠で就業中、敗戦の放送を聞く。
1946年(20歳)、同校を繰り上げ卒業(薬剤師の資格を得る)。読売新聞第1回戯曲募集に佳作入選。
1948年(22歳)、自作童話2編がNHKラジオで放送されるなど童話作家・脚本家として評価される。
1949年(23歳)、医師三浦安信と結婚。
1950年(24歳)、「詩学研究会」に初めて「いさましい歌」を投稿、掲載される
1953年(27歳)、川崎洋からの誘いで同人誌「櫂」を創刊。
1955年(29歳)、第一詩集「対話」刊行。
1957年(31歳)、「櫂」解散。
1958年(32歳)、保谷市(現・西東京市)東伏見に家を建てる。詩集「見えない配達夫」刊行。
1965年(39歳)、詩集「鎮魂歌」刊行。「櫂」復刊。
1975年(49歳)、夫・三浦安信、肝臓がんのため死去。金子光晴死去。
1975年(50歳)、ハングルを習い始める。
1977年(51歳)、詩集「自分の感受性くらい」刊行。
1979年(53歳)、岩波ジュニア新書「詩のこころを読む」刊。
1986年(60歳)、エッセイ集「ハングルの旅」刊行。
1990年(64歳)、翻訳詩集「韓国現代詩選」刊行
1991年(65歳)、「韓国現代詩選」で読売文学賞受賞。韓国への旅。
1992年(66歳)、詩集「食卓に珈琲の匂い流れ」刊行。
1996年(70歳)、詩画集「汲む」刊行。
1998年(72歳)、「二十歳のころ」刊行。
1999年(73歳)、詩集「倚りかからず」刊行。
2000年(74歳)、大動脈解離のため入院、乳がん発見され手術。
2002年(76歳)、「茨木のり子集 言の葉」(全3巻)刊行。
2004年(78歳)、川崎洋、石垣りん死去。
2006年(79歳)、くも膜下出血のため自宅で死去。
2007年、詩集「歳月」刊行。
自分の感受性くらい
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
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茨木のり子展
http://burakusabe.exblog.jp/20829733/
2014-06-20T20:43:00+09:00
2014-06-20T20:45:04+09:00
2014-06-20T20:43:20+09:00
sayamaziken
2014年6月
「茨木のり子」を知ったのはごく最近で、新聞の書評で後藤正治著「清冽」(詩人茨木のり子の肖像)(2011年2月4刷)を読んでからだ。そして、詩集「倚りかからず」を読み、自由奔放というか、その瑞々しい感性に心を惹かれた。
彼女をとりあげた『展示会』があることを雑誌で知り、「ああ、観たいなあ」と漠然と思った。しかし、会場は東京で、そのために行くのは憚れた。期日が迫る中、それなら「図録」だけでもと注文をした。が、何だか、落ち着かず、払い込みを先延ばしにしていた。
その間、茨木のり子展」が私を惹きつけるような感じと、これを観ずしてどうするのかという脅迫観念めいたものが内部で渦巻き、それらに押し出されるように東京に赴いた。京王線「芦花公園駅」南口から歩く。閑静な街並みが続き、会場である世田谷文学館はその一角にあった。
入口を入るとショップと受付カウンター、その奥にイベントステージ、左奥には喫茶店、展示室は2階という構造だ。休憩をしたかったが、喫茶店は満員だったので、先に展示を見ることに。
ぐるっと回ったが、内部はかなり広く感じた。とてもいいつくり(レイアウト)だ。茨木のり子の「すべて」がそこにはあった。ああ、来てよかったと。
何が引き合い、何のために?そう、その答え(つながり)は、「寺本知」だ。昨年、「生誕100年」のイベントをしたが、「寺本資料」の多くはまだ眠ったままだ。これをどうにかしたい、その思いが引き合わせたのだ、と思う。そして、整然と展示された「茨木のり子展」を観て、その思いは一層募った。
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「原発行動隊」
http://burakusabe.exblog.jp/20826606/
2014-06-19T21:07:00+09:00
2014-06-19T21:14:41+09:00
2014-06-19T21:07:29+09:00
sayamaziken
2014年6月
病床で「あとを頼む」=強い信念、卓越した行動力―評伝・山田恭暉前隊長
時事通信社 2014年6月18日 18時50分 (2014年6月18日 23時57分 更新)
東京電力福島第1原発事故の収束作業を志願する「福島原発行動隊」の初代理事長、山田恭暉さん(75)が17日、志半ばで他界した。厳しい作業が続く第1原発の状況や、現場入りが果たせていない行動隊の今後を、最期まで気に掛けていたという。
山田さんは2007年、悪性リンパ腫を発病、医師から「3カ月先の約束はしないように」と言い渡された。突然の宣告に動揺し、朝からアルコールに浸る日々。内臓を壊しもした。それでも、自分自身を静かに見つめるうち「自分の手柄だとか周りの評価だとか、そういうことは全く気にならなくなった」。
原発事故が起きたのはそんな時だった。「これは大量の被ばく要員が要る。老人の出番だ」。東大工学部で学んだエンジニアの山田さんには、事態の深刻さがすぐに分かった。早速、手紙やメール2500通を友人・知人に送り、「若年作業員の被ばくをわれわれの世代が肩代わりしよう」と訴えた。
しかし、「人手は足りている」と言う東電の壁は厚かった。賛同者は瞬く間に2000人を超えたが、意欲をそがれ、焦りが募る。「除染や被災者支援など手近な活動を」との声も上がったが、「あくまで本丸は原発構内での収束作業」と、山田さんは揺るぎなかった。
行動力も卓越していた。12年夏には米国に渡って1カ月間滞在。議会関係者やマスコミに、行動隊の意義を説明して回った。行動隊を紹介する本を出版、署名活動も展開するなど目標実現へと労を惜しまなかった。
亡くなる前々日の15日。大学時代からの友人で、今年3月に理事長を引き継いだ塩谷亘弘さんが病院に見舞うと、それまで意識が混濁していた山田さんは目を開け、「何もできなくて申し訳ない。あとを頼む…」と声を絞り出した。
行動隊は今も、以前と変わらず現場入りを目指して活動を続ける。創設者のリーダー不在でも、揺るがない組織をつくり上げたところにも、山田さんの類いまれな資質が見て取れる。(時事通信編集委員・芳賀隆夫)。
再録:以下は2012年3月3日に福島県立博物館で行われたシンポジウムでの山田さんの発言のレポートだ。
第3回東北復興シンポジウム「海やまのあいだに生きる」より
山田恭暉(原発行動隊)
670人の応募があり、1700人の応援者が集まった。今日までのところ、東電は我々に必要としないと答えている。なぜ動けないのか?福島原発は、大企業が元請けとなって、7~8段階の下請けがあり、関連会社は400社にもなっていて、東電はコントロール出来ない。現在、東電の社員は10人しかいない。1960年代から作り上げてきたこの機構・構造を何とかしないとどうにもならない。これは、日本を新しく作りかえることでもある。どうしたらいいのか?まだ答えがないが、社会、政界、経済界への働きかけをし、バックアップする周辺活動をすることだ。同時に、継続的な募集による人材確保が必要。
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第18回三者協議を読む
http://burakusabe.exblog.jp/20819739/
2014-06-17T20:12:00+09:00
2014-06-17T20:54:16+09:00
2014-06-17T20:13:19+09:00
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2014年6月
第18回三者協議について(速報)
部落解放同盟中央本部
(1)取調べ録音テープ弁護団反訳、浜田鑑定書を提出(2014年5月7日)
弁護団は、証拠開示された取調べ鈴音テープの反訳とこれを心理学的に分析した浜田寿美男・奈良女子大学名誉教授の鑑定書を5月7日、東京高裁に提出しました。
東京高裁の勧告によって、2010年5月に開示された36点のなかに、石川さんの取調べを録音したテープ9本がふくまれていました。弁護団は、この録音テープを専門家に依頼して、デジタルデータにダビングし、これをもとに弁護団独自の反訳を作成しました。また、この反訳をもとに、取調べ録音テープが、石川さんの無夷を示しているとする心理学者の浜田寿美男さんの鑑定書「狭山事件・請求人取調録音テープの心理学的分析」を弁護団作成の反訳とともに東京高裁に提出しました。弁護団が提出した新証拠はこれで136点こなりました。
浜田鑑定は、取調べ録音テープでは、複数の警察官がほとんど話しており、石川さんの応答は短い語句ばかりで体験者の語りになっていないこと、石川さんの話の中に真犯人しか答えられないような「秘密の暴露」はなく、石川さんが犯行の態様について知らないことを示す「無知の暴露」が多く見られることなどを指摘し、取調べ録音テープが、無実の人が虚偽の自白におちいった過程であると結論づけています。
(2)第18回三者協議(2014年6月13日)
2014年6月13日、東京高裁で第18回三者協議がひらかれました.東京高裁第4刑事部の河合健司裁判長と担当裁判官、東京高等検察庁の担当検察官、弁護団からは、中山主任弁護人、中北事務局長をはじめ、横田、青木、近藤、平岡、河村、小島、山本、指宿、野口の各弁護土が出席しました。東京高裁第4刑事部の担当裁判官が4月1日に交代し、今回はあらたに担当となった陪席裁判官が出席しました。
弁護団は、自白で「私密の暴露」とされた車の駐車について、この車の駐車や事件当日の車の運行状況などの捜査資料の開示を求めていましたが、検察官はすべて「不見当」としました。また、弁護団は、この間の開示証拠を分析し、3月13日に手拭い関係の証拠開示申立書を提出し、さらに4月11日に補充書も出して、死体発見直後の手拭いの捜査資料があるはずだとして開示を求めていましたが、この日までに回答がありませんでした。検察官は速やかに確認するとしました。
未開示の筆跡資料については、前回の三者協識で、裁判所から、プライバシーの問題のないものについてはできるかぎり開示に応じてほしい、プライバシーの問題の有無について裁判所に提出して裁判所が検討したうえで、問題のないものを開示するという方法が提案されました。検察官は、5月2日付けで意見書を提出し、弁護人に開示はできないとしながらも、裁判所に提出する用意はあると回答しました。この日の協議で、この未開示の筆跡資料については、検察官から裁判所に提出し、裁判所が開示について検討することになりました。
弁護団は、5月12日付けで、この筆跡資料をふくむ証拠物や客観的証拠の一覧表(リスト)の交付を求める申立書を提出しました。開示された上申書や録音テープなどから、検察官がこれら証拠物につけた番号が抜けていることがわかり、弁護団は、これら番号の飛んでいる証拠物の開示を求めてきました。検察官は開示を求める証拠物を特定するよう主張しましたが、弁護側には、検察官の手元にどのような証拠物があるのかわかりません。そこで、弁護団は、証拠物のリストを開示するよう求めました。この日の協議で、検察官は従来通り、証拠リストは開示できないと述べましたが、弁護団からは、番号飛びが問題になっている証拠物ないし客観的証拠にしぼってリストを開示するよう求めていること、法制審議会では証拠リストの開示を法制化する方向で議論がすすんでいること、何があるかわからなければ特定せよと言われても限界があることなどを指摘しました。裁判所も客観的証拠はできるかぎり開示するという立場であり、証拠物の一覧表の開示を前向きに検討するとしました。
弁護団からは、提出した浜田鑑定と取調べ録音テープ反訳の重要性を訴え、今後、関連する新証拠や補充書を提出することを伝えました。とくに、自白調書と録音テープとの落差が歴然としており、弁護団反訳書、浜田鑑定書を十分に検討してほしいと申し入れました。
次回の第19回三者協議は8月下旬におこなわれることになりました。今回は証拠の開示じたいはありませんでしたが、証拠物の開示やリストの開示にむけて議論が具体的に前にすすんだといえます。この流れをさらにすすめ、徹底した証拠開示を求めて世論を大きくしていくことが重要です。
狭山事件発生から51年、石川さんは半世紀以上も無実を訴えています。映画「SAYAMA」の上映運動もすすめられています。袴田事件でも証拠開示によって明らかになった新証拠がカギとなって再審開始決定が出されました。袴田事件の再審開始に続き、狭山事件でもいまこそ証拠開示と事実調べをおこなえという世論をさらに大きくしていこう!
以上
2.私の意見と見立て
3月28日、前回の第17回三者協議で河合健司裁判長は、①車の駐車および手拭いに関する証拠について、「開示の検討」を検察官に求めた。②番号飛びの証拠物のうち筆跡資料について、プライバシーの問題がない部分については、「開示に応じるように」検察官に求めた。③プライバシーに関わる部分については、マスキングするなどの方法を検討することを検察官に要請した。④番号飛びの証拠物の開示、証拠リストの開示を求めた。
さて、6月13日に行われた第18回三者協議でこれらはどうなったか?
①について、検察官は「すべて不見当」とした。
②③について、検察官は「弁護人に開示はできないが、裁判所に提出する用意はある」と回答。検察官から裁判所に提出し、裁判所が開示について検討することになった。
④について、検察官は「開示を求める証拠を特定するように」「リストは開示できない」と主張。裁判所は、「証拠物の一覧表の開示を前向きに検討する」とした。
報告書に記載されていることは協議の一部で、しかも本質的なことではなく、実際はもっと突っ込んだやりとりがされているはずだ。そうしたことを踏まえても、証拠開示もなく、大きな進展もなかったというのがとても気にかかる。そして、いつものことだが、河合裁判長の姿勢がよくわからない。どのような対応・指示をしたの、しなかったのか、とても気になるところだ。検察は、言い古された「持論」を繰り返し、時間稼ぎと証拠隠しに終始していることは明らかだ。裁判所には見せるが、弁護側には見せない?など、証拠物の私物化を公言して憚らない。こんな居丈高で恥知らずな対応が許されていいはずはないし、それを容認する裁判所(河合裁判長)のありようが腹立たしい。
次回(第19回)は8月下旬とのことだが、このペースでいけば年内にもう1~2回あるだろう。それをふまえて、年明けに何らかの判断を迫るということになるのだろうか? 「議論はすすんだ」「チャンスはある」「半歩前進」・・などなど、受け止めはいろいろで、「期待」をつなぎたいとの思いもわからなくはない。だが、決して満足できるような内容ではないだろう。なぜなら、ここまでのペースは検察のものだからだ。それを覆し、こちら側のペースにするためにはまだまだやるべきことがある。どこに焦点をあてて道を拓くのか、的確な方針提起を望みたい。
ところで、陪席の裁判官が1名交代したようだ。第4刑事部の履歴は以下の通りだ。
2013年 3月 21日 河合健司,川口政明,小川賢司
2013年10月11日 河合健司,高木順子,小川賢司,小野裕信
2014年 4月 12日 河合健司,高木順子,藤井俊郎,小川賢司
2014年 6月 6日 河合健司,藤井俊郎,小川賢司
昨年10月に3人体制から4人体制になり、今回また3人体制になった(他の部は4人か5人だ)。高木裁判官は、5月2日付で千葉地裁部総括判事に異動になっているから、藤井裁判官が後任になったと思われる。なお、河合裁判長と小川裁判官は昨年3月から担当している。いつ、どのタイミングで異動があるかわからないが、河合裁判長が替わるのも遠いことではない。それまでが「勝負」だと思うが、問題は「いつ」「どのように」、そこ(事実調べを決断せざるを得ない状況)に持ち込むのかだ。
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第18回三者協議、速報です。
http://burakusabe.exblog.jp/20814929/
2014-06-16T11:28:28+09:00
2014-06-16T11:28:36+09:00
2014-06-16T11:28:36+09:00
sayamaziken
2014年6月
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7月15日に注目!
http://burakusabe.exblog.jp/20812885/
2014-06-15T19:27:00+09:00
2014-06-15T19:30:09+09:00
2014-06-15T19:27:18+09:00
sayamaziken
2014年6月
三鷹・バス痴漢冤罪事件を支援する会のhp
要請宣伝と判決日
7月15日(火)13時30分、506号法廷にて判決が行われます。
ただし、傍聴券発行となるので13時10分までに受付に並ぶようご注意ください。
また、同日12時より、高裁前で宣伝行動を行います。合わせてご参加いただけますようお願いいたします。
竹内景助さんは無実だ!三鷹事件再審を支援する会
三者協議(進行協議)が
7月15日に決定しました。
判決と三者協議だが、奇しくもどちらも「7月15日」だ。その帰趨は「狭山」にも影響があるだろう。注視したい。同時に、せめて「狭山」もこれくらいの情報開示はすべきだろうと思う。積極的な情報発信をすべきだと、今年3月の部落解放同盟全国大会で訴えたが、その「成果」は今のところ皆無に等しい。こんなありさまでは事態の進展は難しいと私は思うのだが、なかなか同調してもらえない。一体、何を考えているのだろう?
18回目の三者協議はあったのか?明日以降なのか?いずれにせよ、固唾をのんで待っている幾多の人々に想いを馳せてほしいものだ。
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なるほドリ?
http://burakusabe.exblog.jp/20804961/
2014-06-13T07:34:20+09:00
2014-06-13T07:34:23+09:00
2014-06-13T07:34:23+09:00
sayamaziken
2014年6月
「危惧」は現実になり、「法」が私たちを縛る。気づいたときには、身動きがとれない。そんな事態になってきている。]]>
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