物事が、いつ・どんな展開をするのか?現実をシビヤにクリアに見つめれば、見えてくることもある。それは日々の小さな事柄の積み重なりの結果であるけれど、往々にしてそれら見逃し、局面転換を前にして、「ああ、あのときの、あのことが・・・」と思い至ることが多いのが実情だ。そして、人は思う。「あのとき、ああしておけば、ちがった結果になったかもしれない」と。
「予見」することは難しいが、だからといって成り行きに任せているわけにもいかず、その狭間でもがくのが生身の私であり、そこに生きることの面白みもある。後悔や慙愧の念の繰り返しの中で、学びの瞬間もある。人は、自分の存在や価値について、表向きは控えめで、消極的な評価をするのが普通だが、その一方で、心の奥底には、私をべた褒めする私がいる。自己否定と自己評価、私はこの相反する私を持っている。だから、生きることができるのだろう。
自己評価は、時に自惚れ・気負いをもたらし、等身大の自分を見失わせることがある。かけがえのない自分は、世のため、人のために有意な存在であり、それだけの仕事をしているとの自負はを持ち、それを実感することは大切なことだ。もちろん、それは独りよがりではなく、自他共の世界に裏付けられてのことであることは言うまでもない。
だが、時にその枠組がはずれ、この私の関与なしでも、その世界が回る、いや、輝くこともある。それは衝撃であり、受け入れ難い現実だ。摩訶不思議な感覚に襲われるが、冷静に考えれば、「さもありなん」と思い至るのだ。何のことはない、事態はずでに私の手を離れ、届かないところにいっていたことに気付かなかっただけのことだ。刻々と推移し、変化する現実に自分が折り合わず、旧態然のままにあったのだ。
歴史は古いものを淘汰し、新しいものを創っていくように、いかに進歩的・革新的であっても、その桎梏となる可能性がある。そうならないためには、絶えざる自己革新が必要で、これを怠ったり、漫然や傲慢の匂いを放つと、すぐさま淘汰されるのだ。