2月25日、豊中人権まちづくりセンターで、「在日を生きる」のテーマで人権文化まちづくり講座があり、金生遵(キムセンジュン)さんが、在日コリアンをめぐる問題について、さまざまな角度から話をしてくれた。
戦前は193万人を越えていたが、戦後、祖国に帰国し、現在は60万人となっている。金さん自身は在日3世で、父母や祖父母のきびしいくらしを共にし、それは身体や記憶にも刻まれているが、4世や5世の子どもたちは、環境も意識もちがってきているから、同じようにはいかない。しかし、忘れてはならないこと、伝えるべきことはある。父親は、仕事をする上では、日本名のほうがいいのに、ずっと本名で通した。小学生の自分の娘は本名だが、大阪全体では13パーセントにすぎない。1年に1万人が帰化し、9割が国際結婚しているように、「在日」といっても“ひとくくり”にはできない。「韓流ブーム」は、ほんとの意味の「出会い」とはなっていない。
など、金さんの言葉の一つひとつがじわっとしみる、いい時間だった。
そして、私は、やはり金さんの話を部落問題と重ねて聞いた。世代が進むにつれて、自分が何者であるのかが、わかりづらくなっていってることは共通している。しかし、「在日」の場合は、ビデオに出てきた俳優の伊原剛さんは、35世で、金さんも24世だというようにそのルーツをたどることができるらしい。そこにどんな意味があるのは別にして、自分が朝鮮半島にルーツを持つ者であるかということがはっきりする。
しかし、部落差別の場合は、それははっきりとはしていない。というよりも、ほかと区別できるようなものは何もない。そこに生まれたこと、そこに住んでいる、ただそれだけのことで「差別」の対象になる。よく、部落差別は「いわれなき差別」だと言われるが、いわれがあろうがなかろうが、差別はいかなるものであっても許されることではない。問題は、それでもさまざまな「差別」があり、それを正当化するさまざまな口実がつけられることだ。そこでは、本来は尊重されるべき違いや個性も差別の理由になる。
しかし、そこで私は思う。部落差別には、「いわれ」=部落差別をされるようになった理由、はないのか?と。現実に、部落差別は生きている。それは、幻想ではなく、まぎれもない「事実」だ。では、人々は、なぜ「いわれ」や「理由」のない部落差別にとらわれるのか?ここをはっきりしなければ、部落問題の解決にはいきつかないと思う。
そして、金さんの話を聞きながら、これからを生きる「ムラ」の子どもたちのことを思った。私たちとはちがった世界を生きることになることはまちがいないけれど、その世界で生き抜くために、少しは私たちの経験や知恵が役立てばいいなあ。どう生きるかを決めるのは、彼や彼女一人ひとりだけれど、できれば私たちの問題意識をひきついで、その答えを見つけてほしい、そう思った。