21世紀の世界の行方を左右するアメリカ大統領選挙は、おおかたの予想通り、「変革」を掲げたオバマ候補が勝ち、初の黒人大統領が誕生した。果たして、アメリカは、世界は変わるのか?格差社会と戦争と金融危機、オバマはどう舵取りをするか、注目されるところだ。
翻って、日本ではすぐにもあると思っていた解散・総選挙が遠のき、先行きの不透明感が漂っている。麻生首相のただ今の思いは、一日でも長く総理の座にとどまりたいということにあるらしいから、「変革」は期待薄かもしれない。新しい歴史を加速度的に刻んでいく世界にあって、日本はどこにいくのだろう?
オバマ候補が訴えた格差の解消は、日本でも大きな問題となっているが、自公政権は、総額2兆円規模「生活支援定額給付金」を柱とする追加経済対策を講じるとしている。公明党の肝いりらしいが、金で票を買う、政権政党による究極の買収行為だと言わざるを得ない。
さて、生臭い話題はおいて、先日、来年5月で2000回に達する予定の森光子の「放浪記」を観る機会があった。88歳にして矍鑠(かくしゃく)としたありようをイメージしていたが、さすがに老いは隠せない。初めての観劇で、比較する材料は持ち合わせてはいなかったが、イメージと現実とのギャップは確かにあった。声量やその張り、所作の躍動感、表情のきれなど、痛々しさを感じることもあった。
しかし、である。それにもまして森光子の一挙手一投足が観る者の心を打つのはなぜか?そこには、あれやこれやの演技の是非を超えたものがある。「放浪記」の作者である林芙美子を演じるその人との重なりもあるのかもしれない。しかし、何よりも役者としての存在自体に、培ってきた歴史に惹かれるのだと思う。
人はいつまでも同じポジョンで居続けることはできない。必ず、ピリオドを打つ時が来る。その時を自ら選ぶのか、それとも朽ち果てる時までやり続けるのか。それはその人の生き方の問題であり、他人が云々すべきことではないと思う。どんなに痛々しさを感じさせても、どんなに目を背けられようとも・・・なのかもしれない。森光子の「放浪記」は、まさに命を削るという表現がピタリと当てはまる。だから、その意味では、軽々にこうして論じることなど、許されることではないのだろうとも思う。
ところで、今、小林多喜二の「蟹工船」がベストセラーとなっているように、派遣をはじめとする非正規雇用の問題が、クローズアップされている。その意味で言えば、「放浪記」が描く世界は、まさしく最底辺の人々の普段のくらしであり、今日の「貧困」ともつながっているし、「蟹工船」よりも身近な世界だとの思いを強くした。
そして、「放浪記」に描かれたその人・林芙美子は名声と財をえたが、幸せな生涯ではなく、若くして世を去った。その生きようは、何が人を幸せにするのか、人は何を人生に求めるのか、人生とは何かという究極の問いを投げかけているように思う。
●花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき(林芙美子)
●働けど働けど楽にならざりじっと手を見る(石川啄木)