「そんなつもりはなかった」「意図など全くなかった」、これは差別事件を起こした人の常套句だ。悪意を持って差別し、平気で人を傷つける人もいなくはないが、たいていの人はそのつもりがなくて、まちがいを犯してしまうものだ。
問題は、客観的な事実がすべてを明らかにしているのも関わらず、その事実を受け入れることができずに、「つもり」も「意図」もないことに固執し続ける人がいることだ。下世話な言い方をすれば、「ネタはあがっている」のに、首を横にしか振らず、言い訳と居直り、あげくのはてには、「沈黙」にいたることになる。
火事はぼやのうちに消し止めることができれば大事には至らないように、この種の問題も、初期対応を誤らなければ収まるべきところに収まるはずだった。しかし、そうした配慮や思いやりを解せず、逆に自分が被害者になったかのように錯覚し、逃走を企てんとする者がいる。
そして、そうした愚行に走らすのは、まわりの「善良」な人々の大いなる勘違いと浅はかな身内擁護意識のせいでもある。事の本質を諄々と説くべき人たちが、自己保身もあって、問題に向き合うことをさけ、穏便に済まそうとする、欺瞞的な対応が彼らを勇気づけ、居直りを許すのだ。
しかし、それらは問題を複雑化し、解決を困難にするだけであり、バケツや消火器ではなく、消防隊の出動を準備することにつながるだけだ。火の手を大きくするのか、ここで消し止めるのか、選択権は彼らが握っている。「君たちは包囲されている。ムダな抵抗はやめなさい」という事態にまで突き進むのか、よくよく考えるべきだろう。
間違いや過ちを認めることはつらいことだが、事実を消すことも変えることもできない。誰が、何を吹き込み、あるいは、誰が、どんな嘲りを放っているのかは知らないが、このままでは墓穴はどんどん深くなるだけだし、そこに入るべき人が増えることにもなりかねない。
まずは、問われていることに誠実に答えること、そこからしか始らない。何をさておいても、このことに向き合うべきだ。