3月3~5日、東京・九段会館を主会場に部落解放同盟第65回全国大会が行われました。大阪の「飛鳥会事件」をはじめ、京都、奈良とあいついだ一連の「不祥事」を乗り越え、「再生・改革」への道筋をめぐる議論を期待して参加しました。二日目に三会場で行われた分散会には、915人が参加し、48人が、最終日の全体会でも4人が発言しました。私の全体的な印象としては、部落解放同盟および部落解放運動が今こそ議論しなければならないことが焦点化されず、議論の深まりも感じられず、淡々と終わったように思います。
水平社から86年、大筋で言えば、部落解放運動は確かな歩みを刻んできましたが、人々の部落に対するまなざしを大きく変えるには至ってはいません。部落差別は人々の意識の奥底に沈殿したままであり、センセーショナルな「事件」が起こると、それが攪拌され、たちまち浮上しきます。しかし、たった一人の不心得者、たった一つの不始末が、「やっぱり、部落は・・・」と全体化されることを嘆くのではなく、部落問題とはそういうものであることを見定め、身を律しなければなりません。
また、部落差別に限らず、差別は人と人との関係をこわばらせ、差別される者とする者、糾す側と糾される側というように両極に引き裂きます。この関係を解きほぐし、響きあい、重なりあう関係にすることなしに、部落問題の解決には行き着きません。だから、はじめに組織や運動ありきではなく、部落問題でつながれる新しい人間関係をどうつくるのか?そのための運動や組織はどうあるべきか?問題の立て方はこうあるべきだと思います。
さらに残念に思ったことは、「戦後最大の危機」と叫ばれているにもかかわらす、昨年12月に出された「部落解放運動に対する提言」も含めた提案について、「本部方針を支持する立場から・・・」との陳腐な枕詞を吐く人はあっても、辛口の意見が皆無に近かったことです。こんな時に異論や異見が出ないのは正常ではありません。部落問題の根っこに迫ろうという探究心や好奇心、つまり、知的な意味における「ハングリー精神」の衰退を痛感しました。
年に一度の大会ですから、身内の意思統一を図り、団結を確認しあうだけでよしと考えているとしたら大きな勘違いだと言わねばなりません。落解放同盟および部落解放運動がこれからも社会的な存在と社会的な役割を果たしていこうとするなら、そこにとどまるのではなく、「なるほど」「さすが」といった人々の理解と賛同、共感と共鳴を得るような姿を示すべきです。
「再生・改革」のプランは満場一致で採択され、役員も全員が信任されましたが、前途はなお厳しく、その身からはなお灰汁が抜けきらず、衣にはなお埃がまとわりついたままのような気がします。