11月30日、豊中人権まちづくりセンターで「人権文化のまちづくり講座」があり、社納葉子さん(フリー・ライター)が、「ライターが出会った部落問題」というテーマで話をされた。ここでは、そのレポートをするつもりはない(社納さんと部落問題や部落解放運動との関わりについては、「ふらっと」というHPを参照してほしい)。で、何を取り上げるのかというと、話の中で、スナックで酔客が解放同盟への聞くに堪えない誹謗中傷を言い合ってる場面に遭遇し、黙っていられずに口を出したところ「部落の人ですか?」と問われ、彼女はいわゆる部落出身ではないけれど、「そうです」と言ってしまったことに触れ、「そうじゃないだろう?」との思いがずっと残っていたという話についてだ。もし、私が、あなたがその場面にいたら、どうふるまい、問われたことにどう答えるか?
はらんでいる問題はいくつかあると思う。例えば、部落の人って誰のことか?これすら自明であってそうではない。いわゆる被差別部落に生まれた者を指すのか?移り住んできた人はそうではないのか?その両者の子どもはどっちなのか?部落から出ていった人はどうなのか?また、外からそうみなされる人がそうなのか?自身の認識・規定によって決まるのか?いずれも答えを一つに集約することは難しい。
この問題を違った側面から言えば、部落問題の当事者とは誰かということではないかと思う。いわゆる部落出身ではないけれど、「そうです」と言ったことの本当の意味は、「私は部落問題の当事者です」というところにあるのではないかと思う。差別問題は差別をする者が、差別をしなくなれば解決するとよく言われるが、その差別をする者が差別をしなくなるためには、その問題をタニンゴトではなく、ジブンゴトとして引き受けることが必要だろう。そこの橋渡しがないと、二極に裂かれた両者の関係は、対立と敵対を脱することは不可能だ。だから、「当時者」=差別を受ける者・される者と解され、そのことが被差別の側の優越的な位置と権能の根拠ともなってきたが、問うべきは「当事者とは誰か?」とことだろう。
問題を戻そう。私だったらどうふるまい、問われたことにどう答えるか?やはり、黙って見過ごすことはしないだろうと思う。「その言い方はおかしい、間違っている」と言うかもしれない。そして、問われたら、「部落の者であるのかないのか、そんなことは関係ない。おかしいことはおかしい、間違っていることは間違っていると言いたいだけだ」と答えようか。それですまなければ、「私は部落問題の当事者です」と答えることにしたい。「出自」を云々する議論はしないだろう。
みなさんはどうお考えですか?