これは、「
こぺる」NO.157(2006年4月)のなかでの藤田敬一さんの言葉だ。
部落や部落差別にどのような姿勢・構えで対するのかは、解放運動のありようが大きく関わっている。ともすれば、差別されることへの被差別部落住民の恐れや不安、おののきを前面に押し立て、部落差別の厳しさを強調する傾向に陥りがちだ。部落問題が喫緊の課題とは映らず、興味・関心が遠のいている状況にあれば、なおさら被差別性を際だたせたくもなる。それは実感にストレートに響くがゆえに即時的な効果は抜群だが、長くは続かないことも確かだ。
藤田さんのこの言葉に出会って考えこんだ。そういえば私もそうした物言いをしてきたきらいがあるなあと。そして、それは部落差別が今なお存在し、それが被差別部落にくらす人々、とくに子どもたちにとって大きな現実問題としてあることをわかってもらいたいがために発した言葉で、それだけで他意は全くない。しかし、だからこそ余計に始末が悪いとも言えるなあと。主観的意図は善意であっても、客観的にはそうとも言えないことはままあるという真実に気づかないほどに主観的になっていたなあと。
しかし、である。そうだなあと思いつつも、この言葉どおりを実践することは容易ではないこともわかっているから、それで問題が片づくわけでもない。でも、かまえやめざすものがはっきりするから、やることも自ずと明らかになるはずだし、他の誰でもなく、この私が乗り越えなければならない課題も見えてくる。まずは肩の力を抜いて、もう一度私のまわりにある部落問題を見つめ直すことから始めたいと思う。