第二審第7分冊
第75回 公 判 調 書(供述)
(1974年5月23日)
石川一雄さんがくらしぶりついて答えています。
青木弁護人
それでは、提出します。(本速記録末尾添付本日付 石川一雄作成名義の図面を提出する)
次に、あんたの家の食糧事情について、聞きますがね、子どもの時に、食糧事情が、あんたの家じゃ、非常に悪かったということだけれども、そのことを聞きますが、特に記憶で「ひどかった」というのは、いつ頃までですか?
19年から25年頃までですね。
あんたの年にすると?
年にして、11歳くらいですね、25年は。
それは、お父さんが真面目に働いても、収入が少なかったということが原因してるのかね?
そうだったですね。子どもが多かったし。
子どもが多くてね。
はい。
あなたの記憶していることで、どの程度、食糧に困っていたかという例を1つ挙げてください。お父さんの収入では、この程度しか食べられなかったという例を。
そう言われても、ちょっと困っちゃうんですね。
あんたが、私に話したのでは、“うどん束”のことを言ったね?
ああ、そうですか。いや、もっと悪かったですね。うどんを食べられる時期も、もちろんありましたけれども、21~2年頃は、うどんももちろん、穀類なんかは、ほとんど食べられなかったんですね、その時期は。
お父さんの収入で、うどんの束を買うと、5つぐらいしか買えなかったと?
ええ。5束ですね。
そして、1食で3つ束を食べてしまうと。
そうです。
ということを言ったけれども、比較してみる例だと、そういうことになるのかね?
そうです。当時はとにかく、21年頃から3年頃までは、“あかざ”とかああいうものばかり、食べていたですね。
それで、「配給の砂糖を、食糧代わりにした」と言ったね?
ええ。
21年頃ですね?
何か、米や麦の代わりに、そういう、ざらめというか、黒っぽい砂糖が配給になったんです。それを湯呑み茶碗、1日に1杯ということだったですね、確か。それを食糧代わりにしたんです。
砂糖を湯で溶かして飲んだのですか?
そうです。
あとは?食べ物は?
ほとんどないから、“あかざ”とか“のびる”、そういうものを摘んで食べたのです。
米の配給は無かったわけなんだね?
いや。あっても、買う金が無かったんです。
米の配給も買えなかった。
ええ。買えない状態です。
すると、もちろん、“ヤミ米”は買えないね?
はい。
いま、“あかざ”を食べたという話が出たけれども、その当時、そういった草は、どういうものを食べていたの?
“あかざ”“のびる”、それから“にら”、これは近所でもらってくるんですけれども。いっぱい作ってある所から。それから、あと、サツマイモのつるなんかは、食べたことがあります。
サツマイモのつるは、他でも食べていたが、芹も食べただろう?
ええ。ナズナ、ハコベ。
ハコベというのは、大体、ニワトリの食うものになっていたけれども?
これは、草類では、一番アクが強いんです。で、何回も茹でて食べた記憶があります。
茹でて、どうやって食べるの?
茹でて、醤油か塩。――醤油は、ほとんど当時は無かったですけれども、塩を混ぜて、しょっぱくして食べたです。
すると、米の代わりに、主に食べていた物は何なの?
ジャガイモとサツマです。
それは畑で、こしらえてですか?
いや。当時、1貫目20円だったですね。それを自分の家で、もちろん、畑を少しやっていましたけれども、自分ちは野菜類を作ったわけですから、サツマイモは安いからということで、近所から買って来るんです。確か1貫目、4キロ20円だったと思いますね。
サツマイモをふかして、食べるのかね?
ふかしたり、煮たり、その時によって。ふかしてばかりいると、飽きるというんで、煮たりなんかして、同じですけど、やはり。
ふかした時、下に溜まる水まで飲んだと?
ああ、そうです。ふかすと、甘い水が出るんです。だから、ほとんどそれを、捨てられなかったです。
それから、フスマを食べたと言うね?
はい。
あんたのほうじゃ、フスマを“スマ”というの?
自分のウチのほうじゃ、“スマ”ですね。
フスマは、鶏にやるエサじゃないの?
そうじゃないですね。自分たちは、よく食べたです。舌が痛かったのを覚えています。
どうやって食べるの?
焼いて食べるんです。1回ふかして。それを今度は固めて。で、焼くんです。
それもやはり、主食の代わりにしていたんだね?
そうです。あれはものすごく、舌が痛いんですね。
そういう状態が続いたのは、大体いつ頃までですか?
20年から、やはり25年頃までですね。もちろん25年以降もあったかも知れないけれども。自分はほうぼうに奉公に行っていたから、わからないですね。
奉公に行くまでは、学校に行ってる時も、そういう物を食べてたと?
ええ、そうです。
すると、小学校へ行っていた時は、ほとんど米の飯は食べなかったということかね?
食べられなかったですね。
食べられなかったんだね?
はい、そうです。
すると、さつまいもとかジャガイモとか、■■■■■■大豆も食べていたということだね?
はい、そうです。
そういうものを主食として生活しておったということかね?
そうです。
何か、「蛇を食べたことがある」と言いましたね?
親父に後に、聞かされて。「蛇だった」と。当時は「ウナギだ。ウナギだ」と。自分たちはそう言われて、食べてたけど、後に食べちゃってから、親父が「これは蛇だった」と……。
鍋・釜は、あったの?
釜はありましたけれども、鍋は無かったような気がしますね。
鍋は、何を使っていたの?
鍋は、進駐軍から。進駐軍で払い下げになった缶詰の、大きいやつですね。それに穴を開けて、つるして、針金で。それでやってたですね。
燃料はどうしてたの?
燃料は、山から拾ってきた薪でやったです。
薪を山から、拾ってきてた?
はい。
すると、薪を拾いに行くのは、やはり、子ども、あんたの仕事だったわけ?
そうです。兄貴と俺の仕事だった。ほとんど。
それじゃ、あんたが家の手伝いをしたことを聞くけれども、今聞いたような“水運び“とか”薪拾い“に行ったのは、幾つぐらいから行っているの?
小学校へ上がらないうちですから、18年頃から19年。
年にしたら、幾つ頃から?
5歳頃からです。ほとんど、“薪拾い”と“水汲み”だったですね、自分たちの日課が。
白山神社に水を汲みに行く時は、どうやって行ったの?
これは、バケツでかついで。
天びん?
天びんと言っても、竿ですけど。
竿というと?
竹
青竹?
ええ。
それを、そんなに小さな時から、かついで?
ええ、そうです。
バケツは、どういう物を使っていたの?
バケツは、自分ちで、先ほど言った鍋の、進駐軍の缶詰の、アレですね。それをバケツ代わりにしてやったんです。
缶詰の大きなやつを?
ええ。空き缶を。
空き缶を、バケツの代わりに使って?
そうです。
それで水を汲んできて、どこへ置いておいたの?
水を汲んできて、お勝手の所へですね。
水がめに入れるとか?
水がめが無いから。バケツが、4個くらいあったから。それが無くなれば、汲みに行くんです。
すると、水がめが無いので、バケツに入れたまま置いておいた?
ええ、そうです。
無くなると、また汲みに行くと?
汲みに行くんです。その間に、山へ薪を拾いに行くんです。
水を汲みに行く合間に、山に薪を拾いに行くと?
ええ、そうです。
山というのは、どこの山?
狭山市の、すぐ傍にあるんです。死体が見つかった近所の山。
あの雑木林の方へ行った所?
そうです。図面にやっぱり書いてありますから、見てもらった方がいいです。
“M”の他の人も、やはり、あんたと同じようにやっておったの?子どもたちは。
そうです。“M”の人たちは、みんな“薪拾い”とか。そんな仕事です。
それから、水汲みにも行ったと?
ええ、そうです。自分が記憶してるのは、20年前に生まれた人は、ほとんど、中学へ行ってないと思うんですね。
それは、後で聞くけどね。畑を手伝ったのは、いつ頃から?
21年頃からじゃないですか?
小学校?
小学校2年頃です。
これは、誰とやったの?お父さんの手伝いをしたの?兄さんの?
兄貴とやったです。親父は仕事に行ってたから。
お父さんは、よその仕事に行くので?
ええ。日雇いへ行ってたから。
自分の畑の方は、兄さんと2人で、あなたは小学校の2年頃からやってた?
ええ、そうです。
鍬を持って?
当時は、“M”じゃ、自分が一番上手かったです、鍬ふるうのは。
百姓やるのはね?
ええ。
主に何をやってたの?
主に、ネギ・ほうれん草・大根。そういった野菜類を作ってたんです。
それは、どうするの?うちで食べるの?売るの?
自分ちで食べて、大根なんかは、畑のまま、それは売っちゃうんです。
畑のまま売る?
それは、場で。これだけで、幾らと。
それは、お父さんの方で。
ええ。そういうことはわからないです。
あとのものは、自分の所で食べるやつをこしらえる?
ええ、そうです。
畑は2反くらいだとか?
ええ。3反あって、1反は、どこかへ分けてやって。2反です。
この畑はいつ頃から、自分のうちの物になったの?
23年.終戦直後。いや、終戦後かな?――飛行場の払い下げだから、終戦後ですね。
元は、飛行場だったのを、払い下げを受けたと?
ええ、そうです。
じゃ、戦前は無かったですね?
ええ、無かったです。
小学校へ上がってから、今言ったような、うちの手伝いの他に、どういう仕事を
していたの?
自分ですか?
うん
小学校へ上がってからですか?
上がってから。
上がってからは、今、“山学校”と通称は言うんですが、T、Tさんの弟さんの方ですが、そこへ百姓に行ったです。
それは、何年頃から?
小学校4年ぐらいからです。
小学校3年ぐらいまでは、うちの仕事をやってたと。4年頃から行きだしたと?
ええ、そうです。
これは、お父さんと一緒に百姓仕事をやりに行くの?
はい、そうです。
1日、あんたの分としては、幾らぐらい貰っていたの?
30円から50円だと思ったです。
“山小学校”の方に仕事に行くのは、どういう時に行くの?
結局、ジャガイモなんかが採れる時とか、そういう時に。
いや、あんたの休みの日に行くのか?それとも学校を休んでいくのか?
「“山学校”で仕事がある」と言えば、学校を休んで行くんです。無い時は学校へ行って。
仕事のある時というのは、どういう時なの?向こうから「来てくれ」と言って来るの?
ええ、そうです。「来てくれ」と女中が呼ばりに来るんです。
Tさんの所の女中が、前の晩?
ええ、前の日です。
「来てくれ」と言ったら、翌日、お父さんと一緒に“山学校”へ仕事に行くと?
はい、そうです。
すると、学校は休むと?
はい。
そして、その仕事の無い時に、学校に行くと?
ええ。交互なんです。仕事の無い時に学校へ行くんです。
だから、学校が片手間で、小学校4年くらいの時から、仕事が主になっていたわけですね。
はい、そうです。
“山学校”の仕事が無い時に、お父さんと他の仕事をしに行くことが、あったんじゃないの?
仕事というか、山へ、“しの”なんか、採りに行ったんですね。
“しの刈り”に行ったというね?
ええ。
“しの刈り”というのは、何ですか?
竹の小さいやつ。自分の方では、“しの”というんですけど。
“すだれ”なんかに使うの?
あれは、“よしず”じゃないですか?あれじゃないです。
何に使うの?
何か、籠なんか編むときに使うとか、そういうことを言ってたですね。
籠の材料にするやつ?
ええ、そうです。
それを採りに行く?
はい、そうです。
そして、採ってきた“しの”は、どうするの?
何か、籠屋へ売るか、そういうところまでは、ちょっとわからないですけど。
籠屋へ売るのは、お父さんの仕事だから、わからないと?
ええ、わからないです。
ともかく、お父さんと一緒に採りに行く?
ええ。山といっても、これは遠くてね。Kの方ですね。
その山は、雑木林の山と違うの?
Yっていうのは、現在、入間川のすぐ裏なんですけれど。うちから、北側の方ですね、ずっと。
どのくらいあるの?
3キロくらいです。
片道が?
ええ。
それは“山学校”の方の仕事が無い時?
ええ、そうです。それから、Oの仕事が無い時です。
お父さんは、Oの仕事に行ってるから、その無い時に、あんたと一緒に行くと?
ええ、そうです。
すると、そういうお父さんの仕事に一緒に行く他に、“薪拾い”に行ったり、“水汲み“に行ったり、それから、うちの畑を耕していた、ということなのか?
結局、親父がうちに居ない時に、そういう山の仕事とか、そういう仕事をするんですね。“しの”なんか、採りに行ったりするんです。