自白維持と部落差別の問題
弁護人:青木 英五郎
なぜこの事件が“狭山差別裁判”と呼ばれているのか。
つまり、この事件が、部落差別とどのようなつながりを持っているのか。それを解明することによって、なぜ被告が1審公判の最後まで虚偽の自白を維持し続けたのか、それを明らかにすることができる。
そのことを理解するための前提として、われわれはまず、「差別する側」と「差別される側」との、基本的な関係を明らかにしなければならない。裁判官、検察官を含めて、われわれが「あなたは、差別意識を持っているか」と問われた場合、恐らくは誰もがそれを否定するであろう。
しかし、それは観念の上でのことである。観念的には、あるいは主観的には、差別意識を持っていないからといって、現実に、部落差別の問題に出会った場合、差別される側の人々と同様に、それを受け止められるということには、必ずしもなり得ないのである。それは、部落出身者でない限り、部落差別をされた体験を持っていないからである。差別をされた体験を持たない人々にとっては、その体験のないことについて、根本的な自己反省をしない限り、むしろ現実には、意識するとしないとに関わらず、「差別する側」に立ってしまうことが多いのである。
そして、「差別する側」に立つならば、この事件について、被告の立場を正当に理解することはできない。公正な判断をするためには、「差別される側」に立って、その視点からこの事件を見なければならないのである。
戦後20数年間、滋賀県の中・小学校で同和教育に専念した平井清隆氏は、次のように語っている。
「私は、狭山裁判は、単に石川君が裁かれているのではなく、まさに、部落が裁かれているのではないかと思っています。それも、不当な濡れ衣を着せられて、全国6000部落300万人の人たちが――」
この事件について、部落解放同盟を中心として、100数十万人にのぼる公正裁判要請の署名がなされていることが、明らかにそれを物語っている。「部落が裁かれている」という言葉によって表現される、この事件の本質から、われわれは目を背けてはならないのである。
1審の判決は、被告の自白が信用できる根拠を、次のように述べている。
「(被告人は)捜査機関の取り調べだけではなく、起訴後の当公判廷においても、一貫してその犯行を認めているところであり、しかもそれが、死刑になるかもしれない重大犯罪であることを認識しながら自白している……」
1審の裁判官が、公判廷の自白に重要な証拠価値を認めていることは、明らかである。一般的にいって、いわゆる冤罪事件の被告人が、捜査段階で、拷問、脅迫、あるいは利益誘導などによって虚偽の自白をさせられた場合、公判では、その自白を否定するのが通例である。
しかし、石川被告の場合は、公判になっても最後までその自白を維持していた。しかも、これまでの証拠調べの結果、彼の自白が虚偽であることは、明瞭に示されている。「死刑になるかもしれない重大犯罪」について、このような虚偽の自白の維持は、我が国の裁判史上、かつて例を見ない事件であろう。
被告がした虚偽の自白の維持が、「(“善枝さん殺し”を)自白すれば、10年で出してやる」、「警察官は、弁護士と違って嘘は言わない」といった長谷部警視の言葉、「男と男の約束」を信用したことによるものであることは、被告が当審でくりかえし述べている。
しかも、彼が「10年間、刑務所にいれば出られる」と思い込んでいたという事実は、被告と浦和拘置所で同房にいた証人、Iの証言(当審28回公判)によって裏付けられている。そうであればこそ、彼は判決言い渡しの直前、中田主任弁護人から「判決は死刑の判決になるだろう」と聞かされても、「にやりと笑って、『いいんです。いいんです』と言った」のであるし、(証人、中田直人の証言、当審61回公判)従ってまた、I証人の証言および、浦和刑務所拘置区長であった、証人、霜田杉蔵の証言(当審28回公判)によって明らかなように、死刑判決の言い渡しを受けてからも、被告の態度に変化は見られなかったのである。
このことは、われわれの常識からは、到底考えられないところである。私はこの事件の弁護人になった当初から、この疑問を持ち続けてきた。初めの頃、この問題について、京都の部落解放同盟の青年諸君と討論したことがある。彼らは「警察のいうことを信用するなんて、そんなアホウなことがあるか!」とゲラゲラ笑ってしまった。解放運動の進んでいる地域では、おおよそ考えられないことなのである。彼らは、「警察権力とは何であるか」を知っているからである。しかし、石川被告の場合には、現実にそれがあったのである。そのことを理解するためには、この事件の根底にある「部落差別の問題」を取り上げざるを得ないのである。
被告の、差別された環境の中での生活史。それが原点とされなければならない。――これまでの証拠調べで明らかにされたもの以外に、さらに今後の証拠調べで補充する予定である、石川君の生活史というような事柄を、この法廷で述べることは、私自身、誠に心苦しいことであるし、それをこの場で語られる石川君にとっては、なおさら胸の痛む、身を切られる思いのすることであるに違いない。しかし、敢えてそれを述べる理由は、裁判官がこの事件につながる部落差別の実体、それに基因する自白維持の真相について、十分な理解を持ってもらうことを念願するからである。
彼の家庭は、非常に貧困であった。彼は小学校も満足に行ってない。いわゆる「長欠児童」であった。彼の学籍簿によって出欠日数を示してみる。
1学年:196日(出席) 66日(欠席)
2学年:131日(出席) 116日(欠席)
3学年:213日(出席) 29日(欠席)
4学年:225日(出席) 20日(欠席)
5学年:139日(出席) 113日(欠席)
6学年:78日(出席) 187日(欠席)
彼の語るところによれば、1年生から6年生までの間に、担任の教師が彼の家へ家庭訪問に来たことは、一度もなかったということである。教師からも差別され、見放されていたのであろう。彼の学習の成績は、4学年から6学年までの記録に残された国語、社会、算数共に、クラス中、最低のマイナス2であった。(正確には、4年生の社会の理解マイナス1、態度0、技能マイナス1。5年生の国語の聞くマイナス1)
このような子どもは、「お客さん」と呼ばれる児童である。つまり、学年だけは上に進んでも学力は全く上に進まず、教師が何を教えているのか、自分は今何を学習しているのか、何もわからない児童である。同和教育の専門家である平井氏は被告について、次のような意見を述べている。
「石川君は知能指数100でありますから、出席日数が普通の児童と変わらない状態でありましたら、プラスの成績は記録していたと思います。石川君はこの点から見て、典型的な被差別部落の一児童であったのだと思います。私の考えますところでは、石川君の学力は、2年生程度で6年を終了し、その後も殆ど勉強していないありさまなので、身体だけは成長しましても、社会人としては極めて低い精神年齢にあったことは、間違いないことと思います。これを、部落問題に焦点を当てないで、そのままで一般の人々と同様に考えて、石川君の学力や性情や行動を簡単に決めてしまっては、正しい答えは出てこないと思います。」
この事件について、部落差別の問題を取り上げなければならない根拠は、ここにあるのである。
そこで、被告の生活状況がどのようなものであったかを見ることにする。彼は小学校5年生の時から、所沢の方へ子守奉公に出されている。子守奉公は約半年で、次は山小学校というところのT方へ畑仕事に行っている。そこには14歳くらいまで。その後は、Iという靴屋に住み込みで、約半年働き、次は、M方に住み込みで約半年間、百姓仕事をしている。そこをやめると、田無のNという漬物屋に住み込みで1年半ほど働き、実家に帰ってからは、土方仕事をしたり、18の年からはアメリカ軍の基地で働き、その後、東鳩の工員、さらに土方、石田豚屋の仕事などをして、この事件で逮捕される約1ヶ月前から、トビ職の手伝いをしている。手に職をつけることのできなかった被告は、このように転々と、職場を替えているのである。
彼の生活は、昭和33年頃までがひどく苦しかった。食うか食われないかという生活状態であったということである。一番苦しかったのは昭和25年頃までで、彼の記憶によると、8歳から10歳くらいまでが、とくにひどかった。その当時はアカザなども食べていたと語っている。
次に、狭山地方に於ける部落差別の状況について、見ることにする。現在、この土地の人たちは、口を閉ざしてそれを語ろうとしない。しかし、この地方での部落差別も、他の地方と差異はなかったのである。被告の語るところによれば、この地方では部落民に対して「カアダンボ」という呼び名が用いられていた。また、土地の人は、「4丁目の人」とか「4丁目」(被告の居住地のS4丁目の略称)という言葉で、差別を表していた。彼が通学していた入間川小学校でも、部落差別がなされていたし、同和教育のなかったその当時では、教師の側も部落の児童を放置していたということである。S4丁目から1キロほど離れたIの子どもたちが、4丁目までやって来て、被告たちに石を投げつけることも再三あったと、彼は語っている。
彼の記憶に最も深く残っている差別の傷跡は、Cという理髪店で、「おまえは、いつも汚いな。汚いのは当たり前だな。“カアダンボ”だもんな。」と言われたことである、と私に語ったことがある。
しかし、解放運動の立ち遅れていたこの地方では、部落差別に対する抗議も糾弾も、行われることはなかったのである。被告はこの地方での差別の状況を、次のように述べている(被告の「手記」から引用する)。
「私が生まれ、育って参りました生家は、その頃、『特殊部落』といわれ、一般家庭とは、何かと区別、差別され、疎外される状態の中にありました。おとなたちは、ある種のあきらめにも似た想いに、それらを甘受する生活に慣れ、自らの殻の中に閉じこもる生活状態にありました。子どもたちは、差別され、疎外されているいわれすら理解できず、おとなたちの卑屈さをそのまま見習ってしまう環境にありました。」
むろん、この文章は、被告が控訴審になってから、読み書きを学習し、部落問題に関心を持つようになって、書かれたものである。
この部落差別が、後に述べる被告の、「関源三巡査部長に対する、特殊な信頼関係」を生ませしめる原因である。このような環境の中に生育し、働いて食べるのが精一杯の生活状態にあった被告が、――成人してからは、青年としてのある程度の娯楽は持っていたにしても、――平井氏の述べるように、「社会人としては極めて低い精神年齢にあったことは、間違いないと言い得るのである。実際にも彼がこの事件で逮捕されるまで、彼には遊び友だちはあっても、社会人としての知識、あるいは常識を教えてくれるような人は、一人もいなかった。
彼は、読み書きは不得手でもあったし、嫌いでもあった。彼の警察官調書(38.6.9)には、「新聞を見るのは競輪の欄だけ。それも、競輪選手の名前は読めない」とか、「何回か新聞を買ったが、それを読むつもりではなく、テレビの番組を見るためであった」、また、「『平凡』という雑誌を買ったが、それを読むつもりではなく、女の写真などを見るつもりでした」などと書かれてある。S証人も、「浦和拘置所時代の被告は、読み書きは達者ではなく、彼の希望で、マンガのような本を与えていた」と証言している。まことに、概略ではあるが、これまで述べたような被告の人間形成の過程を知ることが、彼の自白維持の原因を理解する前提条件である。
被告の社会常識の欠落が、一方では、捜査段階から控訴審の初めに至るまでの間、弁護人に対する信頼感の喪失の原因となり、他方に於いては関源三巡査部長に対する、異常なまでの信頼感につながっているのである。
被告が、中田弁護士をはじめとして彼の弁護人たちを、いささかも信用していなかったことは、中田主任弁護人の当審に於ける証言と、被告自身の供述によって、極めて明瞭に示されている。彼はそれについて、後に次のように述べている(「手記」による)。
「私は自分が逮捕され、警察に拘留されている時に、自分のために弁護人がついてくれたことが、どういう意味があるのか、本当にわかっていなかったのです。どういう仕事をする人で、極端な言い方をするならば、自分にとって、敵か味方なのかさえ、しばらくはわからなかったような状態にいたのであります。」
敵、味方の区別がつかなかった、というよりも、被告の場合は、敵、味方を転倒していたのである。彼は味方である弁護人を信頼しないで、逆に、彼を無実の罪に陥れようとする警察官を信用して、彼らの言うがままになっていた。このことは、原審に於いて、被告人が自白しているにも拘わらず、弁護人が全面的に事実を争うという、普通には考えられない公判の進行状況からも、また、控訴審の冒頭で、被告が弁護人にも告げず、突然、犯行を否認し始めたという、客観的事実からも推測し得るのである。
問題は、なぜ被告が警察官の側を一方的に信用したか、特に記録上明らかなように、関巡査部長に対して、異常なまでの信頼感を抱いていたか、である。それを理解するためには、我々は「部落差別の問題」、「部落差別による、人間の疎外の問題」に立ち入らざるを得ない。しかも、その理解のためには、我々は「差別される側」に立たなければならない。
ところで、はじめに述べたように、我々が部落差別を受けた体験の無い場合に、しかも「差別される側」に立とうと志向するならば、その体験を持つ人々、或いは部落差別の状況の中で、差別と闘っている人々の意見を求め、それらの人々から教えを受ける以外には、我々が「差別される側」に立って、事実を見ることは不可能である。私自身、この事件の弁護人となってから、多くの同和教育の専門家、また、部落問題の専門家について、教えを受けてきた。以下に引用する平井氏の見解は、部落差別が青少年にもたらす精神的な影響について、それらの人たちの意見を集約したものと考えられる。
普通では考えることのできない、部落の青年が持つ、特有の精神現象を考えなければならない。
部落の子は普通一般に、縁もゆかりもない他人に、可愛がられたり、愛しまれたりした経験に乏しいものである。このことも、差別によるものであるが、部落の中で血縁同士である人と人との間には、驚くほどの親愛関係が見られる。しかし、それが他人となると、よそよそしい冷たさが見られる。このことが、更に部落外部の者に対する時は、差別から厳しく自己を守るために、一種の心理的警戒態勢をとるという、そのような精神傾向がある。
ところが、このことが逆に作用して、特に部落外部の人たちが、商売の上とか、教育の上とか、その他行政の上とかで、部落の人々の信用を得た時は、それが更に牢固として、抜くことのできないほどの強靱な、絶対的な、その人に対する尊敬と信頼にまで進む場合が、しばしば見られるのである。
部落の青少年たちは、ひとたび人を信じると、どのような障碍があろうとも、又、自分に不利益なことがあろうとも、その信じる人を絶対に疑わないという純真さを持っている。
被告が関巡査に抱いていた心情は、まさにそういう性質のものであったと見られるのである。“死刑”の宣告を受けてさえ、自分の周辺がおかしいとは気付かず、特定の人を信じているという被告の心情や行動は、部落問題に対する深い理解を持ち、部落差別が、被告のような環境の下に生育した青年に対して、どのような性格を与え、どのような心情を持たせるのかを、徹底的に掘り下げ、検討しない限り、正しく知ることはできないのである。
ところで、これに関連して、ぜひとも注意しなければならないことは、このように、ひとたび人を信じたとなると、正邪を論じないで地獄の果てまでも、その人と共に歩こうとする、こういう部落の人々の性情に乗じ、それを利用して、まさにその信頼を裏切るような背信行為をする。――そのような態度をとる部落外の人々が往々にしてあるということである。これは、最も悪質な部落差別である。しかし、このことは、その差別が悪質であればあるほど、その言動は巧妙であり、それを指摘することが困難である。さらに、その背信行為を差別として立証することは、多くの場合、甚だしく困難なのである。
ここに引用した見解を前提として、被告の自白維持の問題を検討する。この説明によって、恐らくわれわれも「差別される側」に立って、この問題を見ることができるであろう。もっとも真実、「差別される側」にある人々は、このような説明を飛び越えて、その差別をじかに肌で感じ取ることができるのであろう。そのことが、この事件を“狭山差別裁判”としてとらえる根拠であろうし、また、それゆえに、100数十万名にのぼる公正裁判要請の署名がなされているのでもある。
そこで、この事件に於いて、警察側がいかに部落差別を利用したかを見ることにする。戦前・戦後を通じて、いわゆる融和政策のための部落と警察とのつながりは、その末端に於いては、所轄駐在所勤務の警察官によって保たれていた。この事件では、S4丁目を管轄する駐在所勤務の関巡査部長が、その役割を果たしている。被告と同巡査部長との結びつきは、被告の加入している青年団がS4丁目の小・中学生を集めて、野球のチームを作ったことがきっかけである。被告が述べているように、そこへ、関巡査部長が入ってきた。事件当時の狭山警察署長、竹内武雄の証言によれば、それは、警察官という立場から少年補導を目的とするものであった(当審41回公判)。しかし、被告は極めて純真な気持ちで、それを受け止めている(以下は被告の「手記」による)。
「その頃、私たちの青年団の主旨に共鳴して、初めて関源三さんが参加し出したのでした。関さんは野球がとても詳しく、私たち青年団の先頭になって、常に積極的に指導の役目を引き受けてくれるのでした。日曜ごとに出向いてきてくれる関さんを、青年団の中から3,4人が応援し、手助けをし、入間川や入曽の小学校の校庭を1日中貸してもらっては、練習に練習を重ね、子どもたちと共に、それは実に楽しい思い出でありました」
このようにして、事件発生当時まで、被告と関巡査部長との間には野球を媒介として、被告の言葉を借りれば「良き指導者としての関さんを尊敬し、親しみも覚える」という信頼関係が続いていたのである。
「学校の校庭が借りられない時は、グランドを所有している会社などにお願いしてまでも、日曜ごとの練習と関さんの指導は続いていたのでした。そして、関さんを通して、私たち青年団が指導した技術がどの程度進歩したかを知るために、毎年5回から6回くらい4丁目の子どもたちを集め、野球大会を行うのでした。この大会が行われる時は、S4丁目でよく買いにゆく商店などから、石鹸、タオル、ノート、鉛筆などの賞品が試合の勝負にかかわらず、たくさん出されるので、子どもたちも真剣に一生懸命にプレーするのでした。……関さんはそんな時は、必ず審判を務めてくれるのでした。」
彼は、このように述べている。
部落外の人である関巡査部長と被告との間にできた、この信頼関係が、「牢固として、抜くことができないほどの強靱な、絶対的な」ものであったことを、我々は知らなければならない。
私が弁護人になったのは、昭和44年のことであって、その当時、何回か被告に面会に行っているが、彼が未だに関巡査部長に対して、信頼感を抱いているのを知って、唖然としたのである。私以外の弁護人も、同じような印象を受けている。たとえ、彼自身は意識していないにしても、それはまさに、「ひとたび信じた人と、地獄の果てまでもともに歩こうとする」ような心情であろう。
前に述べた被告の社会人としての知識の欠落、つまりこの場合は拘留されている被告人にとって、「自分の権利を守ることができるのは、弁護人だけである」という認識の欠如と、後に述べる警察官の方が弁護士よりも信用できると思い込んでしまった恐るべき錯誤、そして、野球を媒介とする関巡査部長に対する信頼関係。これらの事柄を理解することによって、初めて、被告の当審に於ける供述が、そのまま真実を物語っているものであることを、理解できるのである。
被告が関巡査部長に、“善枝さん殺し”の3人共犯を自供する以前に、かれがどのような錯誤に陥っていたかを知るために、中田弁護人に対する彼の応答を引用してみる(当審第2回公判)。
問 あなた自身、自白する前に、私たちに対して、何か、特別の感情を持ったことがありますか?
答 あります。あの時、狭山でね、6月の11日頃だと思うんだがね、中田先生に「18日に裁判がある」と言われてね。そのつもりでいたんだね。そうしたら、18日になっても裁判が無かったからね。だから、「弁護士さんは嘘つきだ」と、俺が長谷部さん(警視)に言ったわけですね。長谷部さんは、「弁護士さんと我々は違う」と。「嘘を言ったら、我々はすぐ首になる」と。だから、今度は長谷部さんなんかを信用したです。
6月18日に行われるはずであった浦和地裁の勾留理由開示公判――被告はその公判で、彼がジョンソン基地でした3人共犯の窃盗を、裁判官に自供するつもりであった――の取り消しを、彼は弁護士が嘘をついたものと誤解した。警察官は、被告の弁護士に対する不信を利用して、「“善枝さん殺し”の自白をすれば、10年で出してやる」という約束を、彼に信じ込ませることになるのである。
問 「弁護士と違って、俺たちは嘘をつかない」と?
答 「嘘をつくと、首になってしまう」と。だから、「10年で出してやると言えば、10年で出してやる! 間違いない!」と、言いました。
問 あなたは、本当に「10年で出してくれるのか?」ということを何度か確かめたわけですね?
答 ええ。そうです。浦和へ行く時も、聞いたです。
「10年」という計算の根拠は、「被告の近所の人が、自動車1台を盗んで、懲役8年になった。自分は9つくらい悪いことをしているから、10年ならいい!」と思った」と言うのである。
問 そうすると、鶏を盗んだり芋を盗んだりしたことが、沢山あって。で、近所の人の例から見ると、「10年ぐらい入っても当たり前だ」と考えた訳ですか?
答 ええ。そうです。
問 警察の人は、「あなたの窃盗や何かが9件もあれば、10年ぐらい入ってなければならない」、というようなことは?
答 言ったです。それは、大宮のね、メガネかけた、ちょっと名前はわからないんだけどもね、主任さんと言ってましたね。その時に、長谷部さんと諏訪部さんの時に言ったです。
我々の常識からは、恐らく理解することの困難な、このような被告の供述を、被告の立場に立って正しく理解するために、私は部落差別の問題を提起しているのである。被告にとっては、「“善枝さん殺し”の自白が、一審判決のいうような“死刑になるかもしれない重罪犯罪であること”の認識を伴うものではなかった」、という事実を、我々は認めなければならないのである。別件で逮捕された直後から、“善枝さん殺し”の自白を強要され、自白しなければいつまでも出してもらえないと、警察官から思い込まされた被告にとっては、「“善枝さん殺し”の自白をすることが、10年で刑務所から出してもらう」という、警察官との取引に過ぎなかったのである。
もっとも、「10年で出してやる」と言われても、彼が即座にその取引に応じた訳ではない。
「殺さないものを『殺した』なんて言うと、家のお父ちゃんが可哀想だと思って、迷っていた」と彼は述べている。被告がこのように困惑した状態にあった時に、自白の攻め道具として利用されたのが、彼の「関巡査部長に対する信頼関係」であった。警察側はそのような意図をもって、被告の身柄が狭山署から川越署へ移されると同時に、関巡査部長を、取り調べの補助として送り込んでいた。
竹内武雄証人は、その理由を「うちの関部長が、一番、取り調べというより、本人をほぐすには、適当であろうというわけです。」とか、「関部長なら、他の捜査員よりか、もっと真実が発見できるだろうということで。」と述べている。(当審41回公判)。
日付の点と、自白に至るまでの2人の会話に、被告の供述と違いはあるにしても、関巡査部長が被告と面接して手を握り合って泣いたこと、それから、被告が3人共犯の自白を始めたことについては、関証人の証言でも述べられている(当審6回公判)。被告の当審での供述を要約した「手記」の中から、二人の出会いの場面を引用してみる。
「6月23日頃、絶食(ハンスト)を始めて、3,4日経った時、長谷部らが『今、関さんが来ると、電話が掛かってきた。“善枝さんを殺した”と、関さんかどっちでもいいから話せ。10年ということは、約束するから』と言った。関さんが『署長さんから、3人でやったことを聞きに行って来い』と言われて来たと言って、入ってきた。長谷部は『今、出てしまうから、話しづらかったら、関さんに話してくれ』と言った。関さんが、私の手を握って、泣いてしまった。『話さなければ、帰るぞ。善枝さんを殺したことを話さなければ、帰るぞ!』と泣いた。それから長谷部が、『さっきの約束は、間違いない』と言って出て行った。関は、また、『話さないのか?』と泣き、それで、俺も泣きながら、『3人でやった』ということを話した。」
弁護人に対する信頼感を失い、孤立無援の状況にあった被告は、このようにして、彼の尊敬し、信頼する関巡査部長の“泣き落とし”に掛かったのである。この泣き落としは、部落差別を原因とする信頼関係が100%に利用されたという意味に於いて、最も悪質な部落差別が行われたものと言えるであろう。
「たとえ、その目的が私をうまくだますための警察の手段であったとは申せ、私にとっては(関さんは)、地獄で仏の顔を見たように、なつかしいものとして映ったのでした。責めるだけ責められ、誰一人として優しい言葉一つ掛けてくれるわけではない中で、たった一人の関さんが私の身を案じ、家族のことを伝えてくれたりして、私を励ましてくれるのでした。しかも、その人が、私と一緒に野球をしていた人ですから、どうして疑ったりできましょうか。私にはそれほど、考える余裕も知恵も、当時はありませんでした。」
被告はその当時の心境をこのように語っている(「手記」による)。「部落の青少年たちは、ひとたび人を信じると、どのような障碍があろうとも、また自分に不利益なことがあろうとも、その信じる人を絶対に疑わないという純真さを持っている」ということを、被告のこの言葉から理解してもらいたい。しかも、この信頼関係は、後に見るように、1審の死刑判決後、被告が東京拘置所へ移監されてからも続いていたのである。
3人共犯の自白が、被告の単独犯行に変更されて、それが原審に於いても維持された経緯は、記録上、明らかであるから省略する。被告に、その自白を維持させるために、警察側の強力な働きかけがあったこと、特にそのために、関巡査部長が誠に重大な役割を果たしていることは、被告の供述ばかりではなく、関源三の証言(当審6回公判)からも、十分に伺うことができる。被告は「自白をすれば、10年で出してやる」という長谷部警視の約束を、死刑判決が下された後までも、信用していた。この、有り得べからざる、不可能な約束を被告に信じ込ませる原因となったのが、関巡査部長に対する被告の不動の信頼であった。彼は控訴審に於いて、少なくとも関巡査部長だけは、その約束を証言してくれるものと信じていたのである(当審3回公判)。
問 (中田弁護人)今もは、その約束については、どう思っているんですか?
答 今でも、関さんだけはね、来たら、恐らく俺のことを言ってくれると思います。ちゃんと。
しかし、この信頼は、無残にも裏切られている。
関巡査部長の被告に対する働きかけは、被告が浦和拘置所に在監の当時から、東京拘置所へ移監された後までも続けられている。同巡査部長は、何回となく被告に面会し、金の差し入れまでもしていた。証拠とされる、被告の巡査部長宛ての手紙14通(その内、5通には、金の差し入れについて、謝意が述べられている)と、ハガキ3通から、彼がこの警察官に対して持ち続けていた信頼感を、我々は十分に読み取ることができるのである。その一部を引用してみる。
昭和38年11月30日付の手紙(浦和拘置所から)
「私は、関さんには、川越に居る時や浦和に来てまでも、親身も及ばぬお世話になっていることを、涙の出るほど、うれしく思っております。それでも関さんを恨む家の者は、もってのほかです。私を保護してくれる区長さんや部長さん、担当さんも、あれほど面倒を見てくれる人はないと、感心しておられ、私もありがたく思っております。どうか、家の者を許してやってください。」
昭和39年6月9日付の手紙(東京拘置所から)
「ちょうど運動をしておった時、面会の担当さんが『石川、面会だよ』と言ったので、『お父つあんが面会に来たのですか?』と聞いたら、お父さんではなく、『関源三』さんと書いてあるよと言われた時は、涙の出るほどうれしかったです。短い時間ではありましたが、楽しいひとときでした。本当にありがとうございました。又、その折、差し入れ金まで、たびたびして頂き、感謝しております。ありがたく頂戴いたします。」
昭和4■年7月18日付のハガキ(東京拘置所から)
「中田先生から手紙が来て、関さんと絶対に会ってはいけないと書いてあっ たのです。しかし、私はそんなことなど構わないでいましたら、本日、父が来て話すには、『弁護士さんに言われたと思うが、関さんと会ってはいけない。もし、隠れて会ったのが解れば、面会に来てやらない』と言われたのです。私も、日記帳に書き入れなければよかったのにと、地団駄しています。しかし、後の祭りですね。また、私としては関さんと会って、川越に居た頃のことをお話ししたいのですが、そんなわけで、私の気持ちをお察しください。」
被告にとっては、関巡査部長は親身も及ばぬ面倒を見てくれる、涙のこぼれるほど有り難い、“善意そのものの人”であった。しかし、少年補導という警察官の立場から、野球を通して知り合ったに過ぎない。しかも、野球以外には関わりの無い――このことは、被告自身が述べている。――一駐在所の警察官が、被告に対してなぜ、それほどまでの厚意を示したのであろうか?我々はそこに、被告の信頼を裏切る、巧妙に仕組まれた“背信行為”を見るべきであろう。それが、差別として立証することの困難な背信行為であり、その実体は、被告の自白維持を目的とするものであった。
しかも、関巡査部長は、被告に自白を維持させるための、“パイプの役割”を行っていたに過ぎない。被告を自白させるために、同巡査部長が最も適役であったのと同様に、その自白を維持させるためにも彼を利用しなければならなかったのである。彼の背後には、被告を無実の罪に陥れようとする、警察権力そのものが働いているのである。
この事件の本質は、部落差別を巧妙に利用した、誠に悪質な権力犯罪である。全国6,000部落300万の人々は、それを自らの肌で感じ取ることができるであろう。われもまた、「差別される側」に立って、この事件を見るならば、それが理解されないはずはないのである。
●山下菊二「戦争と狭山差別裁判」より