1853年、盛岡藩の圧政と度重なる重税に抗して、三閉伊(野田通、宮古通、大槌通)の民百姓が立ち上がった。その数なんと1万6千。
これまでも何度も一揆を起こして、藩との約束を取り付けてきたが、ことごとく裏切られてきたことを教訓に、緻密な策を立て、用意周到を期して事に臨んだ。
三浦命助は、内陸と沿岸を行き来する荷駄商いで、一家と本家のくらしをその肩に担っていた。親しい者から誘われてもいたが、一揆衆のやり方に批判的で距離を置いていた。しかし、人々の困窮が商売にも影を落とすようになり、その気になって彼らの会合に顔を出す。
ところが、豹変したかのような命助の態度は、逆に藩の「間者」ではないのかとの疑念を抱かれる。命助は、それを晴らし、仲間の信用を得るべく、これまで考えてきたことを説き、自ら先頭に立ってそれを実行する。
隣りの仙台藩に行き着き、盛岡藩との虚々実々の駆け引きと交渉が始まる。一揆衆は三閉伊を仙台領にという秘策を中心に、仙台藩を仲介として、盛岡藩に49か条の要求を突きつけ、見事にこれを呑ませる。
頭人(リーダー)たちの確執と猜疑心と見栄、意地の張り合いと妥協が繰り返され、一つひとつ障害を乗り越え、困難な局面をくぐることで、結びつきができ、意思が一つになっていく。