末尾で1998年初夏の出来事について、こう書いている。ボースの愛娘の哲子にボースの旧宅に建つ「RBビル」で会い、ボースが残した書簡(犬養毅や浜口雄幸、頭山満、大川周明、タゴールら)、私信、スクラップブック、写真などの一次資料を借り受けた。一介の大学生に過ぎなかった私は、何としてもボースの伝記を書かなければと決意したと。
それ以降、資料をかき集め、ボースの足跡をインド各地をはじめ、内外の現地をたどるが、読めば、それだけでも並大抵のことではないことを知る。そして、こう言う「共鳴する部分が多く、人間性にも魅了されたが、日本の膨張主義を看過し、その軍事力を利用してインド独立を成し遂げようとした点に引っかかりを覚えた。そのような道しか残されていなかったのだろうかという問いが駆け巡った」と。
テロリストとして迫害を受けつつ、革命家としてその生涯をインド独立に捧げたボース。しのぎを削る帝国主義列強の狭間にあって、その大望を実現するために苦闘・苦悶もした。「よき日」を見ることなく旅立ったが、インド独立はボースありてこそであったこと間違いないだろう。
以下、」『ウィキペディア』から略歴を借りる。
ラース・ビハリ・ボース(1886年3月15日~1945年1月21日)はインド独立運動家。チャールズ・ハーディング総督暗殺未遂事件で爆弾を投擲して負傷させ、また「ラホール蜂起」の首謀者とされ、イギリス植民地政府に指名手配される。日本に渡航する決断をし、ラビンドラナート・タゴールの親族と偽り、1915年6月に日本に入国。大量の武器をインドへ送りつつ、孫文や大川周明とも親交を結び、インド独立運動を続けた。
密入国が大英帝国に知られ、同盟関係にあった日本政府は、1915年にボースに国外退去命令を発令した。孫文はこれに対するため頭山満をボースに紹介した。頭山や犬養毅、内田良平などのアジア独立主義者たちは、新宿中村屋の相馬愛蔵・良夫妻にボースをかくまわせることを工作し、その後4ヶ月間、ボースは中村屋のアトリエに隠れて過ごした。
頭山らの働きかけもあり、同年中に日本政府はボースの国外退去命令を撤回したが、イギリス政府による追及の手は1918年まで続き、ボースは17箇所を転々とする逃亡生活を送った。
頭山の媒酌により1918年にボースは相馬夫妻の娘、俊子と結婚し、1923年には日本に帰化してインドの独立運動に没頭した。
ボースは日本に亡命するに際してタゴールを利用したが、先日、映画「タゴール・ソングス」を観たばかりで、ひょっとしたら二人はどこかでつながっていたのかもと思っていたが、予想が当たってビックリした。
ボースはタゴールに敬愛の念を抱いていたが、インド独立についての考えは違ったようだ。ボースは日中戦争勃発を機にインド国内で強まった反日意識を和らげるために、帝国主義化する日本に批判を強めていたタゴールの来日を要請したが、やんわりと断られている。
ところで、本書は「中村屋のボース」と題されているが、新宿・中村屋の名物カレーこそ、ボース直伝の「インド式・カリー」なのだ。
2011年9月にたまたま中村屋に行く機会があったが、そうした事情を知らず、カレーはいただかなかった。今にして思えばもったいないことをした。今度機会があればぜひにでもと思う。が、たまたまその時パネル展が行われていて、そうした経緯も紹介されていた。