本書は、年末に阪神百貨店の古書セールで購入したものだ。小林多喜二の足跡が丁寧にまとめられている。多喜二が何を希求し、どのような道をたどり、思索と行動を統一し、時代の変革者となっていったのかが見て取れる。その作品はもちろん、いろんな媒体でも取りあげられ、語り尽くされている感がするが、読み通すと、そうかと思う所がある。改めて、その一生を書き留めておきたい。
小林多喜二は、1903年12月に父・末松と母・セキの次男として、秋田県北秋田郡下川沿村(現・大館市)貧しい農家に生まれた。4歳の頃、小樽市でパン工場をしていた伯父の勧めで、家族全員で小樽に移住。伯父のパン工場をサポートする代わりに、学費を出してもらい、小樽商業学校、小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)へと進学。水彩画や詩、短歌などの創作に打ち込む一方、志賀直哉の影響を受けて文学活動を開始し、文芸誌に作品を投稿、入選する。
1924年(21歳)、小樽高等商業学校を卒業し、北海道拓殖銀行小樽支店に就職。初任給で音楽好きの弟にバイオリンをプレゼントし、家計を支える。銀行員になってかも作品を発表し続ける。そして、父親の借金返済のために働いていた田口タキと知り合い、タキを救いだそうと家族と一緒に暮らし始めるが、身分の差に抵抗を感じたタキは多喜二のもとを去る。
1928年3月15日(25歳)、全国で数千人の共産主義者が逮捕された弾圧事件で、多喜二の仲間も逮捕され、それを題材に「一九二八年三月十五日」を発表。この作品がきっかけとなり、多喜二は特高からマークされる。 1929年には代表作となった「蟹工船」を発表する。軍国主義批判が天皇への不敬へ当たるとされて逮捕と釈放を繰り返し、拓殖銀行を解雇される。やがて、地下生活に入る。
1933年2月20日、共産党メンバー(実は、警察のスパイ)と会う約束をしていた多喜二は、東京・赤坂で築地署特高に逮捕され、帰らぬ人となる(29歳)。死因は壮絶な拷問によるものだったが、次の日、警察は死因を心臓麻痺と発表。しかし、多喜二の遺体は全身が無数の内出血で腫れ上がり、足には十数箇所に釘を打たれたような酷い傷が残っていた。
母・セキは、多喜二の顔を撫で、髪の毛をかき上げて、顔を抱えて、「それ、もう一度立たねか、みんなのためにもう一度立たねか」、そう言って、自分の頬を小林の頬に押し付けてこすった。しかし、警察は本当の死因を明らかにさせないよう、病院に手を回したために、多喜二の解剖は行われなかった。築地小劇場での葬儀も厳戒態勢が敷かれ、会場に近づこうとした人たちはことごとく検束されるというありさまだった。天皇制国家権力の無慈悲さと残虐性、狂暴性は、多喜二ら多くの人の命を奪い、アジア諸国への侵略戦争へと向かい、破滅への道をたどった。
多喜二死亡時の責任者は、特高警察部長・安倍源基(戦後、新日本協議会結成)で、警視庁特高係長・中川成夫(戦後、東映取締役)、特高課長・毛利基(戦後、埼玉県警幹部)、警部・山県為三(戦後、スエヒロ経営)の三人が直接、手を下したが、全員、栄進しながら生き延びた。権力犯罪は闇に葬られるのだ。その系譜は今も健在であることを知る。
さらに、こうも思う。貧農の家に生まれ、苦学して小樽商業を出、拓銀に職を得、安定したかに見えた人生は、それからが本番に入る。家族の暮らしを支えつつ、恋人タキへの思いと支援を継続し、筆を放さず、不条理と不正義を見逃さず、底辺に生きる人々と共にあることを選びとる。それは、革命運動に生きることを意味するが、多喜二を突き動かし、全てを賭すに至る思索と行動との一致があったのだろう。もちろん、それは並大抵のことではないし、簡単な言葉で片づけられるものでもない。しかし、時代と状況と人が出会えば、日常の風景を一変させるような出来事が起こることもあるし、その人はありきたりの人でなくなることもある。これは、「自由と必然の問題」と読み替えてもいいように思うが、どうだろうか。