神田日勝記念美術館は、北海道河東郡鹿追町にある。日勝自身は1937年に東京市板橋区で生まれている。
本書にこうある。
1945年3月に東京大空襲の後、8月に一家7人は戦災者集団帰農計画に基づく拓北農兵隊に応募する。疎開と食糧増産を兼ね、既墾地の貸付、未墾地または不作地の無償貸与、農機具の給付など焼け野原と化した東京での生活に見切りをつけるだけの好条件が並べられていたといわれる。
7日に上野駅を発った32世帯49名の一行は、14日に入植地である鹿追に到着した。これらの人々を村民は「ほ」と呼んだ。翌15日、彼らは敗戦の報を聞いた。帰農計画は急場しのぎ、敗戦の混乱とインフレもあり、募集条件は実行されず、与えられた農機具は鍬1丁と鋸1枚だった。
神田一家に与えられた開拓用地は、5ヘクタールの原野だったが、3月に失火で居小屋が全焼し、着の身着のままで焼け出された。雪解けを迎えた一家は、柏の木を倒し、根株を掘り起こす作業にとりかかった。抜根一本につきいくらというように補助金がついたが、農業経験のない都会生活者には途方もなく困難な仕事であった。1年にせいぜい5,6反の耕地をつくるのがやっとであった。
北の大地での悪戦苦闘は報われることなく、ほとんどが5年を待たずに脱落した。そうした中にあって、日勝は農業を生業としつつ絵を描いた。
第1作は、19歳の年に帯広の「平原社展」で朝日奨励賞となった「痩馬」だ。馬は日勝の終生のテーマでもあった。
これを皮切りに、日勝の作品は展覧会で毎年のように入選を重ね、札幌・北海道へと画家としての日勝の名が認められ、評価を高めていった。農業をやめて、画家として立つ道もあったが、日勝は農業にこだわり、農民として生きた。しかし、引き込んだ風邪がもとで、32歳8か月の短い生涯を閉じた。これからという矢先であった。
死の1ヶ月前にこう書いている。
「結局、どういう作品が生まれるかは、どういう生き方をするかにかかっている。どう生きるのか、の指針を描くことを通して模索したい。どう生きるか、と、どう描くかの終わりのない思考のいたちごっこが私の生活の骨組なのだ」
この言葉の通り、日勝は農民の誠実さそのままに生きた。そして、作品には日勝がどのように生きたのか、その痕跡があるといっていい。