17日、三重から田畑重志さんを招いて、2005部落問題は今、研究会・シリーズ「部落問題はどのように伝えられているか」その(3)「インターネットの世界を通して考える」が行われた。8名という参加者にもかかわらず、田畑さんはインターネットと差別・人権をめぐる問題について丁寧に話をしてくれた。今日の、これからの差別・人権問題を考える際に、インターネット上の問題は避けて通れないだけに、もっと多くの関係者に聴いてもらいたかった、ほんとうにもったいないと思った。
愚痴はこれぐらいにして、少しばかり感想めいたことを述べたい。というのも実は今、当日のテープ起こしにかかっているのだが、今日(20日)の夕方、当日どうしてもこれなかった人から電話があって、前回はブログにレポートがあったと言われたこともあって、その気になった次第。
インターネット利用者はおおよそ8千万人とも言われるが、ネット上で差別・人権侵害が横行していることを知っている者はごく一部だということにまず、驚いた。わたしは仕事柄、そういったサイトを時にはチェックもするが、多くの人々にはそんな動機はあるはずもないし、たとえたまたまそんなサイトに行き着いたとしても、それが差別・人権侵害だとして問題視したり、管理者に削除を求めたり、しかるべきところに問題提起することもないのが現実だろう。あらゆる問題のスタートが現実を正しく知り、それに、学ぶことにあるとするならば、インターネットの世界における差別・人権侵害の現実を知ることこそがまずは大事なことなのだと思う。
そして、多くの差別書き込みは意図的に(確信犯ともいえる)なされており、それは確実に被差別マイノリティを傷つけるということだ。それは社会の病巣の一部を映し出していると言って割り切ることは、あまりにも犯罪的だろう。書き込みしている者の向こう側にも、同じ空気を吸って暮らしている同じ人間がいることに想像力が及ばず、いや、その反応を楽しむかのような、挑発するかのようなあからさまな差別をして悦に入る人々が、ネットの匿名性に庇護されつつ、悪態の限りを尽くしている。田畑さんが示したいくつかの例からもそのことがわかる。
こうした傾向は強まることはあっても弱まることはないというのが現在および将来の確かな見通しだ。しかし、これに対する反差別・人権確立の側の対応は大きく出遅れている。このフィールドのパイオニアでもある田畑さんも自嘲気味に、かつて「お前は3本に指に入る」と言われそうだが、何のことなはい、そもそも当時3人としかいかなかったそうだ。果たして、今そうした状況がクリヤーされたかと言えば、必ずしも劇的な変化はないようだ。
それにインターネットは国境を越えるもので、日本の法律が及ばない海外で発信されるケースもふえており、もうこれはつかまえようがない。
問題はわたしたち目の前にある。それに気づいた者がまず声を発し、動くことしかないだろう。そして、それぞれが立つ場所でできることをやること、願わくはそれらがつながること、そんなことから始めるしかないと思う。
(Mさん、詳細は後日
人権文化まちづくり協会のHPや機関誌でおこないますので、これくらいに。)