18日の朝、豊中はうっすらと白いものが舞い降りていた。しかし、ほどなく陽が高く昇り、明るい日差しが差し込み、いつもの風景が蘇る。
16日のことだが、外川正明さんが最新の部落史研究の成果をふまえた部落問題学習のあり方について豊中で講演され、話を聴いた。外川さんは、人権が部落問題を素通りしている現状や、これまでの部落問題学習の主軸であった近世政治起源説の破綻によるとまどいに対して、支配者の側からではなく民衆の側から歴史を見る視点と中世史研究が明らかにした差別と排除と支配の連関とを重ね合わせると、これまでとちがった部落問題学習が見えてくることを自らの実践と例を引きながら2時間あまり熱っぽく話した。もとより、わたしにはそれを再現する力はないので、個人的な問題意識に引きつけて解釈すると、つぎのようになる。
差別は人間が支配する者とされる者、いわゆる階級が成立したことに端を発し、現在もなお続いている。では、部落差別はどのように成立し、今に至っているのか?これまでは徳川幕府が分裂支配のために、士農工商エタ非人の身分制度をつくった(いわゆる「政治起源説」)と説明されてきたが、実はそんな単純ではなく、それ以前の中世と言われる時代(800年前ごろ)に差別視される人々が存在し、それを徳川幕府が身分差別に固めたということが明らかになっている。
では、どうして差別視される人々がつくられたのかということだが、いろんな要素が重なりあっていることはまちがいないが、その一つとして「ケガレ」観念が深く関係している。大雨や洪水、台風、地震、カミナリなどの自然現象、あるいは死や病気、出産など人間の身におこる突然の出来事、これらがおこる理由がわからなかった時代には、人々はそうした出来事を前におそれおののき、神だのみするしかなかった。これは世界中どこでも・いつの時代もあることだが、日本人はこれを「ケガレ」とよんだ。927年につくられた「延喜式」という当時の貴族のくらしの習慣やきまりごとをまとめた書物に「ケガレ」がとりあげられている。たとえば「人の死は30日」「出産は7日」「動物の死は5~3日」と「ケガレ」の期間がきめられ、その間は家にこもらなければならないこと、また「ケガレ」ている人から次の人、その人からまた次の人まで「ケガレ」はうつるとされている。
しかし、いつの時代もこの「ケガレ」の始末をする人がいたわけで、その人たちは「ケガレ」にふれても大丈夫だった。この「ケガレ」を清める仕事(キヨメ)をしていた人々は、神や自然と人間とのあいだをとりもつことができる、いうなれば超能力をもった人々としておそれられ、あがめられていた。ところが、天変地異や人の死がおそれるものではないことがわかってくるようになると、「ケガレ」観念だけが残り、こうした仕事をする人々を差別視するようになり、うまれつき「ケガレ」た者というレッテルがはられるようになる。こうして一定の仕事とそれをする人とが結びつけられ、それらが差別の対象になっていった。
中世史研究家の横井清さんが「この日本列島に住むようになった私たちの祖先が、どのような信仰を持ち、どのような価値観を持ち、どのような外来の文化をうけいれて自分の考えを変えたり、つつみこんだりしてきたかという、ながい歴史のなかではぐくまれた条件や特質というものが、被差別部落というなかに凝縮してきていると見なければならない」と言っているが、部落差別(問題)には1万年の歴史が詰めこまれているということだと思う。
部落差別に限らず、差別というものは理不尽きわまるものだが、それらがなぜ成り立ち、なぜ今も存在するのか?問題解決のためにも、被差別者が差別から解放されるためにも、この問いへの答えさがしをやめることはできない。