「ウィキペディア」には以下のようにある。
出雲 阿国<いずもの おくに、元亀3年?(1572年)~没年不詳>は、安土桃山時代の女性芸能者。ややこ踊りを基にしてかぶき踊りを創始したことで知られており、このかぶき踊りが様々な変遷を得て、現在の歌舞伎が出来上がったとされる。
お国が出雲出身かどうかは決着がついていないものの、出雲国杵築中村の里の鍛冶中村三右衛門の娘といい、出雲大社の巫女となり、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回したところ評判となったといわれている。慶長5年(1600年)に「クニ」なる人物が「ヤヤコ跳」を踊ったという記録(時慶卿記)があり、この「クニ」が3年後の慶長8年(1603年)に「かぶき踊」を始めたと考えられている。『当代記』によれば、京で人気を得て、伏見城に参上して度々踊ることがあったという。
蒲生氏郷に仕えた名古屋山三郎(織田九右衛門)が夫であるとか、山三郎の亡霊の役を演じる男性とともに踊ったといった解説がなされることもある。
その後「かぶき踊」は遊女屋で取り入れられ(遊女歌舞伎)、当時各地の城下町に遊里が作られていたこともあり、わずか10年あまりで全国に広まったが、のちに江戸幕府により禁止される。従来の説では寛永6年(1629年)に女性の芸能者が舞台に立つことを禁止したとされるが、近年では十年あまりの歳月をかけて徐々に規制を強めていったと考えられている。
阿国自身は慶長12年(1607年)、江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、消息が途絶えた。慶長17年4月(1612年5月)に御所でかぶきが演じられたことがあり、阿国の一座によるものとする説もある。没年は諸説あり、はっきりしない。出雲に戻り尼になったという伝承もあり、出雲大社近くに阿国のものといわれる墓がある(京都大徳寺の高桐院にも墓がある)。
(引用終わり)
440年余りも前のことで、不明な部分が多いのは当たり前だろう。しかし、阿国が実在し、彼女が始めた「ややこ踊り」が「歌舞伎」のルーツになったことは間違いない。だからこそ、諸説が飛び交い、様々な阿国像が成り立つのだ。逆に言えば、それほど魅力のある、関心を呼ぶ人物であるということになる。
さて、本書はそうした諸説を巧みに編み上げた、阿国の一大伝記といっていいだろう。資料を渉猟し、つないで、物語にし、時代考証を含めた検証をし・・・、気の遠くなるような作業であったことは想像がつく。何せ、残された資料は限られているのだから、尚更だろう。まあ、それが幸いすることもあるとは思うが。
上下2巻で、(上)では出雲に育った阿国が、故郷と許婚者を捨てて、京の都に出て来て、その踊りを認めたスポンサーに拾われ、四条河原の小屋を根城にしながらも、お上や天子に召され、その名を馳せていくさまが描かれている。
「踊りをせんとや生まれけん」と言うくらい、踊ることに生きる喜びを見出し、ひたすら芸を磨く阿国。好いた三九郎は、観世座を飛び出した鼓打ちで、栄華を求めて止まない。それが二人の間に微妙な影を落とすが、一蓮托生とも言える仲が続く。
一度見たら忘れられず、虜になるほどの阿国の踊り、それに魅せられた人物が、阿国の新しい世界を切り拓く案内人となっていく。人との出会いが物語を転換させていくことになるわけだが、それを呼び込む力がなければ呼応の関係は生まれない。その意味では、阿国の類まれなる才能と情熱とが、それを可能にしていくということになる。
かくして、歌舞伎は生まれたのだ。