石川雲蝶を知ったのは2年前。JR肥薩線(吉松行)の車内の吊り広告だった(大嫌いな舞の海が出ているが)。
九州のローカル線に新潟の宣伝広告が!と驚くと同時に、見事な彫刻に目を奪われ、見てみたいなあと思った。そして、越後湯沢からバスツアーがあることを知ったが、8時45分発で前泊しないと参加できない。だから、心を残しながら、延び延びになっていた。今回、富山~柏崎~越後湯沢の旅を計画し、やっと実現した。
8時45分、越後湯沢駅東口で待つが、バスが来ない。おかしいなと電話をする。30分遅れでバスが来る。後で知ったが、時間が変わっていたのだ。六日町を経由して9人の参加者でスタート。ガイドの中川すい子さんはHPで見た通りのいでたち。
雲蝶 うんちょう:1814年(文化11年)~1883年(明治16年)は幕末期の彫物師。本名を石川安兵衛と言い、江戸の雑司ヶ谷(現在の東京都豊島区)で生まれた。若くして江戸彫石川流の彫物師として名を挙げ、苗字帯刀を許された。20代で幕府御用勤めになり、「石川安兵衛源雲蝶」を名乗った。三条の法華宗総本山本成寺の修築のため、檀家総代の金物商・内山又蔵の招きに応じて、三国峠を熊谷の源太郎と越え、越後の国に入る。やがて当時から鑿(のみ)などの金物の町として知られた三条へ婿養子に入り、酒井姓となった。永林寺の欄間などの彫刻群や「越後日光」と言われる西福寺開山堂(現魚沼市)、秋葉神社奥の院(現長岡市)、瑞祥庵金剛力士像(湯沢町)など、作品は越後に千点近く残る。本成寺本堂脇の墓所に眠る。
まず訪れたのは、「永林寺」。中は撮影禁止なので外だけ撮る。
本堂(広間)に入ると、そこは別世界だ。至る所に雲蝶作品が・・・その数25点にのぼる。圧巻、壮観、いや絶景と言うべきか。
一番有名なのが⑦の「天女」で、ふっくらとした3人の「美女」が楽器を奏でている。観ても見飽きず、視線をどこに定めてよいやら・・・。説明していただいた寺の方が「天女」によく似ていたことも印象に残った。
昼食をとり、「西福寺」に向かう。いきなり中に入るのではなく、山門から行くのがいいと、中川さんに従う。なるほど、これらを見逃しては大損だ。
そして、本堂に入る。床には「埋め木」が施され、欄間には彫刻、奥には襖絵もある。西福寺のピカイチは開山堂の天井一面の大彫刻「道元禅師猛虎調伏の図」だ。首が痛くなるほど見上げねばならないが、圧倒されるとはこのことだろう。「もう、参りました」と言うしかない。
境内には、檀家の人達が「石川雲蝶の作品(宝)を後世に譲り伝え、その功績を称えたい」と、2011年9月に建立された「石川雲蝶 顕彰の像」がある。
続いて、「穴地十二大明神」へ。
ここは野外にある神社だ。中川さんによれば、子どもたちの遊び場でもあり、ボールが当たって作品の一部が欠けたりしているし、風雨に晒されるままになっていることあって「劣化」が進んでいるとのこと。一刻も早い保護措置が望まれるところだ。それにしてもこんなふうに雲蝶作品が野ざらし同然になっているとは!
最後は、「龍谷寺」。
ここは無料かつカメラオッケーだ。
透かし彫りの欄間には獏や麒麟、唐獅子、牡丹が嵌めこまれているが、すべて寄進者の名前がついている。
奥には、寄進された様々な仏像が120体、そのままに陳列されている。
雲蝶の作品は1000点ほどあり、1点を除くすべてが魚沼地方にあるというのも素晴らしい(その1点は、人から人を介して名古屋方面にあるらしいが、確認はされていないという)。越後の人にとっては大いに誇っていい宝物だが、公開されているのはその一部に過ぎない。雲蝶と関わりがあった個人の家に埋もれているものもあるようだ。
それにしても雲蝶、おそるべし!一体、どうしたらこんな彫り物ができるのか?想像してもわかるはずがなく、迷路にはまり込んでしまう。この種のものとしては日光東照宮が有名だが、雲蝶作品はそれを凌駕するといっていいほどの凄味と秀逸さがある。