著者の問題意識はこうだ。
「差別のない社会を実現することに異存はない。しかし、それに勤しむあまりに、人間の心のうちに潜む「悪」を一律になぎ倒そうとしてはいないか?他人に対する不快、嫌悪、軽蔑などの感情を人間の心から徹底的に追放することが、果たして目指されるべきことなのか?こういう悪がすっかり心のうちから消え去った人間集団、そこにおいては、哲学も文学も演劇も、すなわちあらゆる「文化」は消滅するであろう。」
●その通りだと思うが、現実にはそうしたことは不可能で、そんな社会は実現しない。だから、心配はいらないということになるが、実はそこに大きな落とし穴があるようだ。
「われわれは、むしろ差別感情に伴う攻撃心や悪意を保持したまま、自己を正当化することが多い。ここに、剥き出しの攻撃心や悪意よりはるかに悪質な、巧妙に隠された攻撃心が育っていく。ここには、差別をしていないと言いながら紛れもない差別をしているという狡さが悪臭を放っている。」
●そうそう、ヘイト・スピーチをする者も含めて、誰しも自分は差別者だと規定することはない。しかし、差別は人々の内に息づいていることも間違いない。それを自覚するとしないとに関わらずだ。そして、こう言う。
「哲学は救いを与えることはできない。社会を変えることもできない。だが、差別について差別感情について、自己批判精神と繊細な精神をもって、考え続け、語り続けることはできる。」
●そうだよな。差別感情について語り、考えること、これが大事だろう。そこからしか始まらないよね。そこで、具体的に考えてみる。
「現代日本では、制度上の差別はにわかに減少しつつある。その場合、「心における差別」が差別における最大の問題として浮上してくる。
例えば、ある人(A)は子供のころ「被差別部落出身者」という概念をもっていなかった。だから、当然のこととして、そう呼ばれる人に対する嫌悪感もなかった。だが、次第にAはさまざまな経路でその概念を取り入れ、その概念をAなりにマイナスの価値を付与して築き上げていく。彼はその当人を見分けられない。出会ったこともない。だが、誰かが被差別部落出身者であることがわかったら、自分は彼(女)を受け入れないであろうと確信している。
こうして、Aは被差別部落出身者が嫌いなのであるが、体験の裏づけのないまま、ひたすら観念によってこの偏見を築いてきた。この場合、Aはじつのところ概念としての被差別部落出身者を嫌っているのである。」
●部落に関するマイナスイメージの連鎖というやつだ。人はいとも簡単にこれに囚われるのだ。そして、いったん持ってしまった概念を是正したり、改善したり、変えることはとても難しいのだが、その事情についても述べている。
「一方で、観念としての差別感情を覆すことほど難しいことはない。差別感情に凝り固まっている人は、事実を突きつけられても観念を変えることはないのだから。いかに被差別部落出身者が「普通の」人間であることを実証的に提示しても「被差別部落」という言葉のもつ幻惑を消すことはないのだ。しかし、他方、事実に基づいていないからこそ観念を教育によって変えることによって、あるいは自然に変わっていくことによって、差別感情が消えていくという期待も生まれる。」
●「期待」はできるが、あくまでも期待にとどまる。期待を現実のものとするための方策はないのか?それにしても、差別を成り立たせているものの根っこに「感情」があるとしたら、それは一体どういうものか?
「あらゆる差別感情の根っこには恐怖がある。それがどんなに凶暴な差別であろうとも、差別を行使している人は恐怖におののいているのだ。よって、他の何が排除されても人々の心から恐怖を消滅させない限り、差別感情に切り込むことはできない。」
●う~ん、「恐怖」か。恐れと畏れの世界だな。ここで登場するのは阿部謹也だ。
「阿部謹也「中世賤民の宇宙」によると、西洋史の上では、都市の発達と貨幣経済の進展に伴い、かつての古代的原理である「地水火風」は放逐され、その原理に携わっていた者、例えば地に携わるごみ掃除人、水に携わる水車小屋の番人、火に携わる煙突掃除人、風に携わる風車小屋の番人などを被差別者として排除していった。近代合理的価値観の導入によって、こういう自然を操作できる者は超能力をもつ者として恐れられていったのである。
この延長上に排泄物に携わる糞尿処理人も金に携わる高利貸も位置する。糞尿は肥やしとして作物を生育させ、金は増殖し、その点で神秘的であったから、それに携わる人々は被差別者に転落していったのである。動物を飼育する羊飼いもまた、動物と交流できる超能力者として恐れられ被差別者となっていく。産婆や娼婦や首切り人や墓堀人など、生(性)や死という不可解な恐ろしいものを職業にする者がそれ自身恐れられていったのも同様である。
このことが原型としてあり、都市や貨幣経済の発達により、犯罪者や放浪者など、近代的な原理から見た不適格者もまた被差別者として排除されていく。じつに、近代的原理から見たこうした二種類の不適格者が次第に見分けのすかないものとなって近代以降の社会で被差別者として生きていくことを余儀なくされたのである。」
●そうだよね。被差別民は超能力者(エスパー)だったんだ。だから、オソレられると同時に崇められていたんだ。それが、ケガレに転化していくのは洋の東西を問わないのだ。
「ケガレはオソレに結びついている。オソレとは、「恐れ」と「畏れ」とが分かちがたく結びついた概念であって、ケガレを清める力をもった者もまた被差別者であった。被差別者は、人間以下の者(動物に近い者)として恐れられたと共に、人間以上の能力をもった者として畏れを抱かれてもいたのである。こうして、かつては、被差別者に対するオソレが「恐れ」と「畏れ」の二重構造をしていたがゆえに、つまり「恐れ」が「畏れ」に裏打ちされていたがゆえに、彼らにまだ社会的場所はあり、その意味では救いはあったのである。」
●「恐れ」と「畏れ」と「穢れ」の関係を解くことで「差別」が見えてくるんだ。しかし、これは過去のことではなく、現代社会にも通じることであり、その呪縛に私たちもからめとられていることを見ておかねばならない。
「じつは現代日本人もまだ恐れと畏れとの入り混じったオソレから完全には脱出していないことがわかる。海開きや山開き、あるいは地鎮祭は、単なる気休めなのだからやめればいいものを、絶対にやめない。海開きをしなかったがために、水難事故が多発すると気持ちが悪いからであり、地鎮祭をしなかったがためにその家に不幸が続くと後悔するからである。つまり、これらの行事は完全な因習なのではなく、気休めだとしてもなおその威力をわれわれに及ぼすことができるのである。
もちろん、平安時代の貴族のように日常生活がそれでがんじがらめというわけではないが、やはりこのすべては恐れという感情と結びつけなければ説明がつかない。こうしたオソレが日本人の心に生き続ける限り、不合理な差別感情もまた根絶されないのである。」
●指摘されていることは、日常的に見聞きすることだ。「オソレ」の持つ強靭な生命力と言わねばなるまい。さらに言う。
「明治以降の近代社会において、オソレから「畏れ」の要因は希薄化したが、人々の差別意識は残存し、その結果、被差別者は単に恐れられる者に転落していった。同時に、差別それ自体が人間の平等に反する「悪い」こととみなされ制度的に差別は撤廃され禁止されると、それでも根強い差別意識は残ったので、かつてはいたるところに見えた差別は見えなくなり隠されていく。被差別者はますます誰も見たことのない「恐ろしい人」となっていく。これが、差別にまつわる現代特有の残酷な事態である。」
●「畏れ」だけが消え、「恐れ」は「差別意識」とともに残った。しかし、「差別」は見えなくなっていった。かくして、妄想にも似た差別観が掻き立てられていく。そう、今の差別問題の様相はそうだよな。ここで、問題はさらに掘り下げられ、精神の深部に向かう。
「われわれ人間が「よいこと」を目指す限り、差別はなくならないであろう。いや、「よいこと」を目指す人がすべて同時に差別をめざしていることを自覚しないうちは、彼が自分は純粋に「よいこと」だけを目指し、他人を見下すことは微塵も考えていないという欺瞞を語る限り、なくならないであろう。」
●差別と善意と欺瞞との関係性とでも言おうか。差別をなくしたいと思うその内にも欺瞞が潜んでいることを自覚すべきなのだろう。さらに言う。
「自分では、ただ誇りや自負心や矜持をもっているだけであるという自覚のもとに、つまり他人を差別していないという自覚のもとに、執拗で過酷な差別が遂行されるのだ。」
●おお、そうなのか。差別とはこうまでしぶといものなのだ。では、どうすればいいのか?結論は?
「罪のない冗談の中に、何気ない誇りの中に、純粋な向上心の中に、差別の芽は潜み、それは放っておくと体内でぐんぐん生育していく。ボランティア活動で介護の老人から感謝されるそのときに、好きな人から結婚を申し込まれ飛び上がりたいほどの至福を感じているそのときに、わが子の寝顔を見つめながら至福を感じているそのときに、「他人」は見えなくなり、差別感情はむっくり頭をもたげる。なぜなら、そのとき、あなたは「高み」にいるからだ。その「高み」に達しない他人を、一瞬にせよ忘れているからだ。」
●そんなことって当たり前じゃん、と思ってスルーしてしまう自分がいるが、そこに差別感情が潜んでいるとは??!!とてつもない洞察だ。
「すべての行為に差別感情がこびりついていることを認めない限り、自分は差別していないという確信に陥っている限り、自分は「正しい」と居直る限り、人は差別感情と真剣に向き合うことはないであろう。いかなる「聖域」もない。過酷なことは承知のうえだが、現に差別に苦しんでいる人もまた差別する感情から完全に解放されてはいない。そして差別と全力で戦っている人、差別という過酷な現象に怒りをぶつける人や涙を流す人のうちに、生々しいほど「高みから見下ろす」傾向が潜んでいるのだ。それを認めない限り、私はいかなる差別反対論者も信じることはできない。」
●普通の人は言うまでもないが、差別反対者も被差別者も区別なく、差別感情から自由ではないと、過酷を承知で断じる。で、どうする?
「差別感情に真剣に向き合うとは、「差別したい自分」の声に絶えず耳を傾け、その心を切り開き、抉り出す不断の努力をすることなのだ。こんな苦しい思いをしてまで生きていたくない、むしろすべてを投げ打って死にたいと思うほど、つまり差別に苦しむ人と「対等の位置」に達するまで、自分の中に潜む怠惰やごまかしや冷酷さと戦い続けることなのだ。
この努力を自分に「課せられたもの」とみなし、自分の人生の大枠をそして中核を形づくるもの、逃れなれないものとみなすこと。そう覚悟してしまえば、血を流しながらも、むしろ晴れやかに、自然に、軽快に、決して細部を見逃さずに、やり遂げることができるのではあるまいか。」
●徹底的に自己と向き合い、内面に潜む差別心を抉り出し、隙のない思索を続けること。その「覚悟」をしてしまえば・・・と言うが、さあ、どうか?どこまで行くことができるだろう。
水上勉さんが塩見鮮一郎さんとの対談で、「基本的にわれわれの差別というのは差別の意識であると同時に差別の感情なんです。その感情をどうするのかという問題だと思う」と言っていたが、その感情はどのように沸き立ってくるのか?それはどうしたらつかまえることができるのか?という疑問が、本書に向かった動機だ。
通読して思うことは、中島さんが展開されている論がその問いを読み解くキーになるやもしれないということだ。「しれない」と言うのは、容易にはストンと落ちるところまで理解し切れていないからだ。そう言われれば、思い当たる節もないではないし、そういう見立ても当たりだろうなとは思うが、なかなかに自身の整理能力を超えた論でもあるなあと感じ入っているからだ。
それでも、差別意識の底に潜み、まとわりついている感情をみすえ、切開していく作業を不断に続けることによって、差別・被差別の区分けを無化する地平にたどりつくことができる、ということを読み取った。