亀岡市といえば、トロッコ列車に保津峡、明智光秀というところか。JR亀岡駅の南に見える緑の森は亀岡城址で、突き当ると堀があり、ぐるっと左に回り込み、10分ほどで「おほもと」と書かれた看板がかかった大きな門の前に到着。両側には松並木、その奥には梅園があり、すでに花をつけている。真っ直ぐに伸びる砂利道の向こうには森が見える。
突き当りまでくると、広大な敷地に建物が幾棟もあることがわかる。雨上がりの月曜日の朝ということもあるのか、出会う人はいない。受付を捜して、手近な建物に入り、案内を乞うと、記名を求められ、案内地図をもらい、苑内を散策させてもらった。
亀山城を築いたのは明智光秀で、德川時代には「天下普請」により大修築される(その時の石垣が残っていた)。亀山城は、「廃城令」により1877年に払い下げられ、売却される。その後、1919年に大本が敷地を購入し、拠点として整備した。しかし、戦前、二度に亘って不敬罪および治安維持法違反で国家権力の弾圧を受け、亀山の施設は徹底的に爆破・破却された。眼前に広がる風景は、穏やかそのもので、自然が織りなす四季が見事で、その傷跡はなかった。
また、「ギャラリーおほもと」には、出口王仁三郎(1871- 1948年)耀碗をはじめ、出口なお(1837- 1918年)の御筆先、また大本の歴代教主の書・画・陶芸等の作品が展示されているが、いずれも一級品と評価されている。これだけでも見る値打ちがある。
本書には、「おほもと」に対する二度目の弾圧がなぜ仕組まれ、どのように行われたのか、「おほもと」の起こりから書き起こし、治安維持法下の残虐極まる特高による拷問、それに耐えて非転向を貫く信者たちの姿、法廷での裁判の様子などが記されている。特に、二大教主・出口すみこ(1883 - 1952年)その夫・出口王仁三郎に焦点があてられている。
国家権力は、不徹底に終わった一度目を教訓に、二度目に向けて計画的に人を配置し、時間をかけ、マスコミが嗅ぎ付けないように秘密厳守で準備を整え、襲いかかった。対する大本は、これに正面から抵抗はせず、従容として縛に着いた。まるで、一連の事態を予期していたかのような振舞いだ。しかし、新聞は号外をだし、大本は邪教であり、国賊団体、陰謀団体と決め付け、王仁三郎は国賊・逆賊で、死刑もしくは無期懲役で断罪・抹殺すべきだと攻撃した。こうした一方的な報道により、大本信者は大人だけでなく子どもまでもが社会から非難・差別され、迫害に晒された。
「おほもと」のHPにはこうある。
第一次大本事件:大正10年(1921)2月12日〜昭和2年(1927)5月17日
大正10年2月12日、不敬罪と新聞紙法違反の疑いで、出口王仁三郎教祖ほか数人が検挙され、王仁三郎は126日間の未決生活ののち保釈。同年秋から『霊界物語』の口述を始めた。その後、事件は大審院で“前審に重大な欠陥あり”として、前判決を破棄し、再審理中、大正天皇の崩御により免訴となり解消した。
第二次大本事件:昭和10年(1935)12月8日〜昭和20年(1945)10月17日
日本近代史上類例をみない大宗教弾圧。軍国主義に進む時の政府が教団の聖地を没収し、一切の施設を破壊。信徒3000余人を検挙、拷問などで16人が死亡。第二次世界大戦終結前に治安維持法無罪の判決がおり、また終戦に伴い不敬罪も解消し解決した。
この事件で大本が被った損害は甚大なものであったが、国への賠償、補償要求は、「政府からの賠償金といっても、けっきょく敗戦後の国民の血税から受けとることになる」という王仁三郎の言により、いっさい行っていない。また大本は戦時中は弾圧下にあったため、当時の戦争に加担・協力することのなかった唯一の宗教団体とも言われている。