寺尾判決から40年の「10.31」は、第20回三者協議の翌日という符合だ。果たして、事態は動くのか。それとも先延べされるのか、いやがうえにも関心が高まり、注目が集まる。とはいっても、いわゆる「関係者」の間での話だ。水をさすつもりはさらさらないが、どこかで覚めた自分がいる。
「10.31」集会は」それなりに盛り上がるだろう。参加者は一体感を味わい、昂揚感に浸るだろう。それが、次への力になるだろう。だから、それでいいのかもしれないとも思う。しかし、問題はそこにはない。この闘いは、「結果」こそが大事だ。いわゆる、「成果」が求められている。それを出すことが至上命題だ。しからば、それ相応の取り組みが必要だろう。
もちろん、誰もがそう思い、そのために動いているはずだ。だが、本当にそうなっているのか?それぞれの自己満足で終わっていないだろうか?言うべきことを言うべき時に、やるべきことをやるべき時に・・・そうした事を欠いてはいないだろうか?
私たちの相手は、いわゆる国家権力である。それを相手にしていることは、折に触れていわれるが、その割には、危機感や切迫感が薄いのではなかろうか。彼らはその本音を隠し、手の内を見せず、私たちのありようや対応を凝視し、然るべき手を打っているはずだ。
これに対するに、同じようにやっていて勝つことは難しいだろう。何となれば、全ては彼らの手の中にあり、生き死にを左右する力を握られているからだ。これに対応する有効な手段の一つは何かといえば、全てを白日の下にさらし、世論の審判を求めることだと思う。かつても今も、富も権力も持たない私たちが依るべきものは、団結の力であることには違いはない。しかし、今日、それのみでは不十分だ。情報化時代にあって、それを如何に活用するかが極めて大きな意味を持つようになっている。可能な限り公開し、透明化すること、ここにこそ我らと彼らとの決定的な差異が生まれる。だから、これを武器にしない手はない。これこそ、彼らが最も恐れていることではなかろうか。
情報を公開し、発信する意味はここにあると私は思う。しかし、それを言う者はほとんどなく、スケジュールだけが淡々とこなされていく。この様を見るにつけ、「悪夢」は繰り返されるのではとの危惧が募る。
今、これを東ではなく、西に向かって走っている新幹線車中で書いている。新たな展開につながることを念じつつ・・・。