昨夜の「SAYAMA」上映会には老若男女160人が集まり、久しぶりの活況を呈した。「噂にたがわず、よかった」との感想も寄せられた。10年ぶりに顔を合わせた人もいるなど、「狭山」ならではのパワーも感じた。願わくは、これが裁判所を動かす力になり、「狭山」の歴史的な1ページにつながることだ。
映画は、ほとんどの場面が一雄さんと早智子さんで、後半に六造さんとウメ子さんが登場し、獄友の菅家さんと桜井さんが味を添えている。二人の日常を執拗なまでに追うという、シンプルなつくりがとてもいい。
六造さんとウメ子さんのやりとりを聞きながら、事件は幾多の人を様々に巻きこみ、その運命を翻弄したことを改めて思った。海底の震源地から放出されたエネルギーは、海を揺らし、波を起こし、波が波が呼び、大津波となって陸を襲い、地にあるものを押し流し、根こそぎ海に引き摺り込むが、冤罪もこれと同じだ。
「生きた犯人」をつかまえるために、被差別部落に捜査を絞り込むとの方針が決定されたその瞬間に「冤罪」が誕生し、120人ともいわれる無関係の青年たちが「容疑者」として洗われ、その中から一雄さんが生贄にまつりあげられた。警察も検察もマスコミも市民もこれに加担し、冤罪ができあがっていく。そして、裁判所がこれを仕上げる。これら、一連の過程に直接・間接を問わず関与した者は一体、どれほどの人数になろうか!
それぞれに罪はあるが、一様ではない。50年のうちに、過ちに気づいて悔い改めた者もいる。しかし、いまだに真実に背を向け、向き合うことを頑なに拒否し続けている輩もいる。国家権力を構成する機関の一員であることがそうたらしめている大きな要因ではあるだろうが、もはや「冤罪」であることは衆目の一致するところだ。それを受け入れてこそ、司法や検察の威信や信頼・信用も確保されるはずだが、そこに至らしめていないのは、まだまだ私たちの取り組みのパワーが足りないからなのだろう。
この映画は、百の言葉を尽くしても尽くきれないものを静かに、丁寧に伝えている。観るものの感性を揺すぶり、心を動かすものを持っている。優れた文化・芸術は、人を感動させるが、SAYAMAはまさしくその一つだ。広げよう、SAYAMAムーブメント!来たれ、狭山が動く日!