「俺は、ボランティアさんたちには、感謝してるんよ。この洋服もかばん(ウエストポーチ)も身に着けているものは全部、ボランティアさんにもらったものなんだ。感謝してる。でもな、これから、どうなるんだろ…って思う時はあるよ。生きていてもさ、女房も友だちもみんな、流されて亡くなって、俺だけが生き残った。住んでた所を行政が買い上げてくれるっていうけど、川向うの町までは住宅地だから、高く買ってくれるらしいんだけど、俺の家があったところは住宅地じゃない、工業地帯だからって、買い取りの値段がガクーンと落ちるんだ。仮設ができたから引っ越したらいいっていうけど、最初は、[市民病院や町の施設から五キロ範囲で…]って言ってたのが、実際に入れる仮設は、山の向こう、十キロも十五キロも病院や町から離れた所なんだ。この年になって、一人でそういう所に行くのはね…。」
「それで、あんまり腹が立って、このあいだ、釣竿を持って、俺の家があった辺り、川に、釣り道具を持って出かけて行ったんだよ。それで、釣竿垂らしていたら、『どこから、ここに入った来たんですか?ここは立ち入り禁止ですよ。出て行ってください』って言うんだよ!もうあんまり、腹が立ってさ、情けなくなってきて、『ここは俺が生まれ育って、家を建てた土地なんだ!!ここで近所のやつらと、子どもの頃、走り回ったり釣りをして、一日中、遊んでた場所なんだ!!なんで、出て行けなんて、あんたに言われんといけんの!?』って思わず言ってたよ。」
沈黙の時間が流れる。
「今年は、お連れ合いさんの三回忌ですね」、辛うじて私の連れ合いが言うと、男性は答えた。
「うん。女房を供養してやりたくても、お墓を作るのも順番待ちでさ、5月に申し込んでずっと順番待ちをして、やっと去年の10月にお墓ができてね。三回忌、済ましたよ。ちょっと、ホッとしたかな。」
「また、今年も暑くなって、お盆が来ます。そしたらまた、お連れ合いさんに会えたらいいですね…。どうぞ、お身体を大切に。元気でお過ごしくださいね」そう言葉をかけるのが精いっぱいで、別れた。
訥々とした話しぶりに引き込まれ、いつまでも聞いていたくなる人だった。どこか懐かしい人柄の人だった。人と触れ合い、言葉を交わすことで、少しでも癒されることがあれば…と願う。眼下に広がるのは、「復興いまだ遠し」と思わせる殺風景な風景だ。それは、被災者をはじめ、そこに暮らす人々胸の内とも重なるような気がする。街の一角では「復興イベント」も開催され、にぎわっていたが、それとて仮設仕立てで、人々の“暮らしの匂い”が立ち上るものではない。
アベノミクスなるまやかしめいた言葉に踊らされ、成長!成長!の合唱が起こるなか、濡れ手に粟を求める輩が跋扈している。その一方で、被災地の復興や被災者の生活再建は置き去りにされ、原発事故はなかったかの如く矮小化・隠ぺいされていっている。「がんばろう!と言われても、何をがんばるのか・・・」と男性につぶやかせてしまうのは、こうしたこの国と私たちのありようなのだと思う。