ある事柄をどう評価するのか、それはその人の拠って立つところや有する価値観などによって異なることは当たり前のことだ。その意味では、部落出身であることの出自を暴くことについても、見解の相違があっても仕方がない。しかし、事は人権上の問題でもあり、そうかと言って済ますことはできない事柄をはらんでいる。だから、いかなる事情・経緯があるにせよ、他人が当事者の同意なしに公表する権利など誰にもない。その相手が誰であっても、そんなことがまかり通ることを許してはならないと思う。
1世紀前、部落問題は人々の視野にはなかった。水平社の創立によって、ようやく部落問題は闇の中から、日の当たる場所に出てきた。そして、戦後、「同対審答申」と「特別措置法」を獲得し、部落問題は国民的課題へと押し上げられ、人々の興味・関心が集まる一時代を迎えた。そして、華やかな宴の時間が終わり、今、部落問題は再び人々の視野の外へと追いやられている。まさに潮が引くように部落問題は黄昏の時にある。
週刊誌を賑わす一連の暴露記事は、部落問題に関わる記事であることに違いはないが、それは部落問題につきまとうタブー感やダーティなイメージを増幅し、差別を助長する役割を果たすことになるだろう。とりあげられた当事者への忌避感を生むかもしれないし、逆に同情を呼び起こすかもしれないが、いずれにせよまっとうな部落問題観を育むことにはならないだろう。
部落問題はことさらに「国民的課題」になる必要はないが、アンタッチャブルな問題に落とし込められていいはずもない。この社会に遍く部落問題が存在し、人々の意識を捉えている現実と、それが時に人権侵害を引き起こすのを見るとき、「売らんかな」のみの思惑で取り扱うべき問題ではないはずだ。そうした見識を欠いたメディアには、メディアたる資格はないとも言える。
こうした形で部落問題が取りざたされることによって、部落問題の何が、どう変わるのだろうと思う。暴露合戦が一段落したあと、冷静さを取り戻して、部落問題とは何たるかを問うような、正面きった紙面づくりをするつもりなのだろうか。そこまで見通した上での、暴露記事だとはとうてい思えない。まき散らされた差別・偏見だけが人々の内に澱となって沈殿していくような気がする。