24日、国際交流センターで行われた「橋下主義(ハシズム)を斬る」に出かけた。メインテーマは、維新の会の「教育基本条例(案)」で、まず冒頭に中島岳志さんが問題提起をしたあと、雨宮処凛さん、寺脇研さんの3人による鼎談「ハシズムの教育に、子ども・若者の未来は託せない」と続き、最後に会場からの質疑応答があった。橋下知事も辞職・立候補表明し、さぞかし熱のあるイベントになるのではと想像していたが、会場は7分の入りで、静かに進行した。
中島さんは、何が民意をハシズムに向かわせるのかと問題を立て、閉塞感とシニシズム(冷笑主義)が蔓延する中、救世主待望論が台頭、不安を一掃する断言型の物言いが受ける、世論(ポピュラー・センチメント)が輿論(パブリック・オピニオン)にとって代わるなか、世論のジェットコースター化が進行。同時並行して、新自由主義のもとでの格差社会ではじきだされた人々の怒りの矛先は、あらゆる「既得権益」層へのバッシングに向かう。
橋下徹と維新の会の論理は、一貫した既得権益バッシングであり、単純化と断言、ナショナルズムの鼓舞であり、そこには一気に社会を変えることができる能力への過信と設計主義がある。維新の会のマニフェストは、「大阪市民は、多額の借金を抱えさせられ、最貧困生活を強いられ、しかもその現状は日々悪化しているにもかかわらず、他方で、税金と借金で過剰な職員を抱え、職員を養っているのが、大阪の現状である」と書き出されているように、職員を「既得権益」の代表者にし、そこに人々の反感憎悪を集め、引きずりおろそうと呼び掛けている。そのターゲットは貧困層である。
しかし、客観的に見れば、日本は先進諸国で一番公務員の数は少ない。アメリカの半分だ。そして、公務員が減れば、仕事量は同じだから、非正規労働者がその替わりを務めることになっているのが現実で、そのツケは行政サービスの低下・打ち切りとなって、いの一番に貧困層に跳ね返ってくる。ブーメランと同じだ。
このように、いわゆる「左翼」とも「右翼」とも一線を画し、自らを「保守」と規定する中島さんの論旨は明快だ。しかし、橋下徹への個人攻撃には組しない、ハシズムの阻止のためには、私たち一人ひとりが、意見の違う人と議論を交わすことが大事だと言う。まさに正論だが、ハシズムは橋下徹という個人・個性を通して浸透してきているのだから、体現者である橋下徹のそれを叩くべきだろう。
「教育基本条例(案)」については、すでに問題点は明らかだが、寺脇さんが繰り返し言っていたように、大阪府民は「地域で共に生きる教育」を捨てるのかどうかということが問われているということだ。橋下知事が目指しているのは、私たちが長い年月をかけて築いてきた「大阪の教育」を壊すことだが、そうとは言わず、学校に民意を反映させるといった口当たりのいい言葉でカムフラージュしている。仮に、こんな案が現実になってしまうと、空恐ろしいことになるのは間違いない。何としても止めなければと思う。
最後に、雨宮さんが少し元気がなかったような気がした。歯切れのいい橋下批判が飛び出すかと思ったが、何やら控えめだった。お疲れだったのかもしれないが。