粛々と行われたであろう「三者協議」で、所期の成果がえられたのであろうか?知るすべがないことが、何ともはがゆい。そんな思いを抱いている人は少なからずいるはずだ。
昨日、「私たちは単なるコマではない」と書いた。しかし、人の受けとめようはさまざまで、そうしたありようをよしとする人たちももちろん存在するし、「三者協議」の報告がなされないことがわかっている日時に集会が設定されることも、「ああ、そうか」と受け流す人たちがあることも事実だ。だから、昨日、集まった人たちのどれほどが「違和感」をもったかどうかはわからない。
しかし、普通に考えれば、「三者協議」があって、その報告を兼ねた集会だろうと思うのは当たり前だろう。それが、そうではなかったわけだから、「なんでやねん?」と思うのもまた普通だろう。もし、そうした疑問を覚える人がごく一部であったならば、私は狭山闘争の前途は厳しいと思う。
このように私たちの中に「猜疑心」や「分岐」が生まれること、それこそが「敵」のねらい目だと言えるかもしれない。その意味では、彼らは闘わずして、「戦果」をあげたことになり、私たちはまんまとはめられたことになるのかもしれない。この点は心しつつ、なお、言うべきことを言っておきたい。
言うがままには動くが、指令がなければ動かない、自分たちで考えて独自の行動を起こさない、といったありようの限界が指摘されて久しいが、今もってそうしたところに甘んじているのであれば、新しいことは何も起こらない気がする。数は力の一つの源泉ではあるけれど、今、問われているのはその質だ。自分で考え、自分で動く、このことをトコトン追求すべきだ。