朝日新聞(夕刊)で1月19日から「差別を越えて」なるシリーズが10回掲載された。タイトルを拾うと、①「体を通『竹田の子守唄』」(19日)、②「エイッと一歩 世界変わる」(20日)、③「木偶 太鼓 芸に光りあれ」(21日)、④「夢は屠場のマイスター」(22日)、⑤「内と外から気づく痛み」(23日)、⑥「東京怖くて生きにくい」(25日)、⑦「半生告白 妻がいたから」(26日)、⑧「地名総鑑の半生、原点」(27日)、⑨「解放の道歩み止めない」(28日)、⑩「熱と光 いつの時代にも」(29日)となる。
部落問題がマスコミにまともに取り上げられることが絶えて久しいが、その意味では、メディアに載るそのことだけでもプラスに評価していいとは思う。だが、問題はどのような切り口から問題を提起し、結果、人々にどのような印象・感覚を呼び起こすかにある。その点から言えば、新鮮さやはっとさせられるものはなく、これまで幾度も語られ、使われてきた素材の焼き直しとのイメージは免れず、お仕着せのような印象を拭えない。だから、ネットにあるいくつかのコメントも辛口で、そうした意味では、部落問題の切り口が相も変わらず定型のパターンでしかないことに、少なからず失望を覚える。と同時に、ある種のステレオタイプの部落問題観(論)しか提示できていない運動関係者や研究者の貧困さを再認識させられる。
では、どうした視点・切り口が求められるのかと言えば、私にも手に余る問題で、具体的なものを示すことはできるはずがない。しかし、大切なことは、部落問題を「関係者」の世界に閉じこめず、視点や軸足をその外の世界に置くことだと思う。なぜなら、部落問題解決のためのこれまでのとりくみがそのステージを準備してきたからだ。言葉を変えて言えば、部落問題を部落の側の「専売特許」にすることをやめて、部落問題でつながれる人間関係を紡ぎ直すことが求められていると考えるからだ。その点から言うと、「シリーズ」は、部落問題と近いところにいる人たちにはある種の共感を呼び起こすだろうが、そうではない距離のある人たちには響かないのではと思う。
「言うは易く行うは難し」ではあるけれど、ここを開いていかないと部落問題は雲散霧消してしまうような気がする。だから、「足を踏まれた者の痛みは踏んでいる者にはわからない」「差別をする者が差別をしなくなれば差別はなくなる」「部落差別こそ最も深刻な問題である」、といった考え方やそれに基づいた運動論から自由になれているか?部落の側が常に、「学ばれる側、寄り添われる側、問題提起をする側、ときには糺す側」といった一方通行の関係になっていないか?ということを今さらながら自問させられる。