「足利」「布川」に続け!と、多くの人々の念力が届いたのか、事件から46年にして東京高裁の証拠開示勧告という事態に至った。早計も楽観もすることはできないが、大きな一歩には違いない。まずは、この事実を噛み締めたい。
報道にもあるように、検察も「勧告」を無視することはできず、10月30日付のような木で鼻をくくったような対応はできず、説明責任が課された。逃げに逃げてきた検察だが、もはや逃げ得は許されず、逃げ場もなくなったとも言える。検察の欺瞞と虚偽が露わになる可能性が高い。
言うまでもなく、狭山事件は部落差別に基づく冤罪であり、それは幾多の証拠が示している。しかし、裁判所はこれらを一顧だにすることなく、問答無用の棄却決定を連発し、35年間、密室での書面審理を重ねてきた。だから、今般の門野裁判長のもとでの三者協議も、ポーズで終わるのではないかとの懸念が強かった。しかし、時代の風は「狭山」にも吹き、画期的な判断がなされた。
問題はこの先にあるが、これは46年間、無実を訴えてきた石川一雄さんの思いがやっと受け止められた瞬間でもある。退官を目前にした門野裁判長の内に去来したものを知ることはできないが、判断は極めてまっとうだ。今まで幾人もの裁判官が同じ場面に遭遇してきたが、ことごとく「見ざる・言わざる・聞かざる」に徹し、その職責を放棄してきた。
その意味では、「勧告」は英断であり、裁判官としての良心の発露だと言える。もちろん、そうせざるを得ない事情がいくつも重なった結果であり、それらが今後の展開を左右することも間違いがない。だから、「勧告」が活かされ、証拠開示がなされ、鑑定人尋問や事実調べがなされ、再審開始に行き着くことが肝要で、「勧告」はそのスタートに過ぎない。
真実はただ一つであるがゆえに、嘘にまみれてもその輝きは失せることはない。希望は実現するためのものであるがゆえに、抱き続ければ熟するときが必ず来る。