“時の人”菅家利和さんをお招きして行った、11月6日の「世界人権宣言61周年記念豊中集会」が無事に終わった。当初の予想の倍を越える110人もの人が参加し、足利事件の経過と裁判の問題点についての笹森弁護士の丁寧な話にうなずき、ついで行われた菅家さんと笹森弁護士との対談での、朴訥ではあるけれど、怒りをおさえた菅家さんの語りに心を打たれたのではと思う。
質疑では、任意同行なんだから拒否すれば・・・、「自白」しないでもう少し頑張れば・・・、警察は暴行などしないはず・・・などといった思いこみに基づいた意見も出された。これに対して、菅家さんは「経験してみたらわかるよ!」と語気を強められた。
100人を越える人を前にして話す菅家さんを見れば、なんでこの人が?と思ってしまうのも無理はないかもしれない。しかし、17年前の菅家さんと目の前にいる菅家さんは同じ人であって、同じ人ではない。だから、菅家さんがどんな人なのを理解することなくして、足利事件の真実はわからないと思う。「冤罪 ある日、私は犯人にされた」という本が朝日新聞出版から出ているが、これを読めば「なぜ?」の疑問は解けるはずだ。
やってもいないのに、なぜ「自白」をするのか?これは、多くの人が思う疑問でもある。しかし、冤罪事件ではほとんどがいわゆる「嘘の自白」をさせられている。菅家さんも取り調べの中で「やっていない」と何度も言っているが、そんな言葉は調書のどこにも書かれていない。抹殺されてしまうのだ。かくして冤罪は密室でつくられていく。
6月に釈放されてから、各地で話をされているが、こうした質問をされたことは初めてだと言う。しかし、「大阪の人らしいよ」「そういう人にもわかってもらうように話をしないといけないね」と、切り捨てるのでなく、きちんと受けとめておられたのが印象的だった。
菅家さんを冤罪に陥れ、「犯人」に仕立てあげた警察・検察・裁判所の罪は、いくら非難されてもされ過ぎることはない。菅家さんの人生を奪ったばかりか、「真犯人」を逃し、被害者家族に二重三重の苦しみと哀しみをもたらした。それらは何をもってしても償いのしようがない。再審裁判で裁かれるべきは誰なのかは明らかだ。
毎日のように事件は起こり、テレビや新聞はたくさんの情報を流し、私たちはそれに晒される。よほど、意識的に見極める努力をしないと、マスコミの「犯人視」報道に汚染されてしまう。冤罪をつくるのは権力機関だが、それを積極的にサポートしたり、露払い役をするのはマスコミであり、それを肯定し、受け容れるのは私たち一人ひとりだ。だから、「自分と同じ目にあう人がないように!」との菅家さんの思いを胸に刻まねばならないと改めて思う。