1922年に結成された全国水平社は、その創立大会の決議のなかで「吾々に対し穢多及び特殊部落民等の言行によって侮辱の意志を表示したる時は徹底糾弾を為す」と決議、差別事件にたいして差別糾弾闘争を展開してきた。部落解放同盟も、基本的人権を守るための唯一の方法として、「差別にたいする糾弾は、部落解放運動の生命線である」と位置づけてきた。
その評価は一口には言えないが、「差別は社会悪である」との社会規範の確立に寄与してきたことは間違いがない。私自身も含め、部落解放運動に関わる人々の多くが、差別糾弾闘争から学んだことは少なくはない。何をもって差別と断ずるのか?それはどこから、どのように生まれいずるのか?緩和・改善策は何か?など、糾弾闘争のなかで、飽くなき探求を重ね、部落問題論を進化させてきた。部落解放運動のこうした営みは、部落問題に限らず、他の差別問題でも適用可能で、その意味では「差別を撃つ」モデルともなり、部落解放運動は反差別運動のリーダーとして範を示してきた。
だが、こと部落解放運動の世界では、常に差別を糾す側であったとしても、その世界の外では、糾される側に立たされることがあるのは理の当然だ。被差別と加差別の垣根は無限の隔たりではなく、するりと越えることができるほどのものだ。自らの立場や資格の絶対化に慣れ親しみ、固執の域まで達していればいるほど、自分の立ち位置は見えにくくなり、人の声は届かなくなる。円の中心にいれば、円内はよく見えるが、円の外は見えにくい(周縁を侮るなかれ)。そして、誰もがという訳ではないが、人は自分の拠って立つ立場を脅かされる事態に遭遇すると、防御本能が働き、身を守るために武装するものだ。それは事と次第によっては“悪あがき”となる。
そこで思う。人の値打ちはいろんな測られ方があるが、他人を傷つけたときに、どれだけ相手の痛みに思いを馳せることができるか?誠意と誠実とを伝える術をどれだけ持ち合わせているか?も大事な尺度だなあと。差別糾弾闘争で学んだものは、糾弾・断罪するテクニックだけではなく、人としてやってはならないことは何であり、人としてやるべきことは何かであったはずだと。