2007年5月23日、門野博裁判官が狭山事件の担当裁判長になったと聞いたとき、「ああ、これは狭山シフトだな」と思った。なぜなら、名古屋高裁刑事2部の裁判長として2006年12月、「名張毒ぶどう酒事件」で、奥西死刑囚に対する再審開始決定を取り消す決定をしたのが彼で、その「功績」で東京高裁に「栄転」したのだから、彼の印象がよくないのは当然だ。そして、彼が指揮する第4刑事部には、狭山事件の第3次再審のほかに、布川事件の第2次再審、東電OL殺人事件の第1次再審が係属し、いずれも冤罪を争っていた。「名張毒ぶどう酒事件」の鮮烈な印象からすれば、彼の役割は、これらの冤罪を一刀両断にすることにあるのではと、穿った見方をされても仕方がないだろう。
その彼が、2008年7月14日に「布川事件」で再審開始決定をしたことには、「おっ!」という驚きを禁じ得なかった。まあ、裁判官はバランス感覚に長けているから、「名張毒ぶどう酒事件」の“負い目”をここで取り払おうとしたのかもしれないが・・・。
そして、彼は2009年4月から、「判例タイムズ」という専門誌に、「刑事裁判ノート 裁判員裁判への架け橋として」と題する論文を連載しているが、「連載に当たって」で、「
私は、定年まで、あと1年を切りましたが、改めて、多くの判決、決定にかかわってきたことに驚かされます。今、実際に刑事事件に取り組み悩んでおられる方々の一助になれば幸いと思い、これらのうち特に自分が悩み、苦しんだ裁判例の一部を、私のコメントと共に、皆様のご高覧に供したいと考えました。裁判官が自分の裁判について自ら語るというのは異例かも知れません。しかし、私が悩み抜いた姿を率直にお伝えすることによって、これが少レでも日々悩みながら刑事裁判に取り組んでおられる方々へのご参考となり、それが間もなく始まる裁判員裁判のための架け橋となればと考え、あえてそれに挑戦してみました。」と書いている。
そんなときに実現したのが狭山事件の「三者協議」だ。単なるポーズで、幕引きのセレモニーに過ぎないとする見方ももちろんあり、その警戒は怠ってはならないが、事はそう単純ではないだろう。寺尾や高木など、苦杯を舐め続けてきた経過からすれば、油断や楽観は禁物だが、「三者協議」がたとえポーズであったとしても、それを使わない手はない。土壇場での「背信」を織り込んで、ここは攻めるべきだろう。
もちろん、その成否は第一義的には「三者」の攻防の結果に帰すのだが、そこに至るプロセスに私たちが関与できる余地はいくらもある。不満足な形ではるけれど、15日の日比谷野外音楽堂での集会はそのスタートであった。10月末の検察の「中間報告」に向けて、12月の2回目の「三者協議」に向けて、どれだけの世論を喚起できるかが分かれ道だ。
かくして、第3次再審が最終局面を迎えていることは間違いない。であるならば、私は何をすべきなのか、何ができるのか、一人ひとりが自らに問い、それを実行すること、これに尽きる。飽くことなく、倦むことなく、しつこく、とことん、やりぬく「豊中スタイル」の本領を発揮せねばと思う。