9月15日、新幹線車中で熊谷達也の「七夕しぐれ」を一気に読んだ。主人公の小学五年生のカズヤは父親の仕事の都合で、宮城県内の小さな町から、憧れの仙台市に引っ越してきた。広瀬川沿いに並ぶ五軒のみすぼらしい住まいにショックを受けるが、隣家にはクラスメートが二人いることを知り、関心を寄せる。ところが学校では、その2人が周囲から疎外されているのに気付くが、なぜなのかが分からない。逆に、二人に接近するカズヤが級友のイジメの対象になり、もがく。隣に住むストリッパーや元ヤクザから、この地域が差別されていることを知らされたカズヤは、2人のクラスメートと不当な差別を訴える挙にでる・・・。
仙台が舞台の、部落問題をテーマにした作品で、かつメインキャストは小学五年生だ。部落問題を正面にすえてはいるが、肩肘張らず、目線はあくまで子どもたちに徹している。どこまでが著者の原体験に基づくものなのかはわからないが、大人になった著者のコメントめいた感想が間に挟まれる形で物語は進行していくというスタイルだ。
そんな中に、こんな文章がある。
「いじめと差別とは、現象的に似たような場合でも、まったくの別物で、差別にはそれを容認する杜会的な背景や力学が働いている。だから、似たものどうしでも、いじめよりも差別のほうが、ずっと根深くて深刻だ。差別される側には差別される理由を解消する手立てがふつうはない、というより最初から取り上げられているのだから、ある意味、どうしようもない。
結論から言うと、いじめと差別では戦う相手が違う。いじめの場合は、もし戦う勇気を絞り出すことができるのなら、といってもそれ自体がほとんど不可能に近いのだけれど、戦う相手は直接いじめている相手ですむ。しかし、いじめではなく差別となると話はややこしくなり、表面上の敵は直接かかわっている相手であっても、本当に戦わなければならないのは、その背後にあるもの。つまり、このときの僕やユキヒロ、そしてナオミにとっての戦うべき相手は、ノリオやヨシコではなく、大人がつくってきた社会だった」
だから、いじめの原因が部落差別にあることを知ったカズヤは、とクラスメートと共に、大人と社会に向かって弓を引く挙に出る。しかし、それによって現実が劇的に変わることはなく、それまでとたいして変わらない日常が繰返されていく。そう、現実は幾重にもバリアーが張られていて、たまさかの一撃によって一時的にへこむことはあってもすぐに元に戻るものなのだ。しかし、子どもたちが撃った意味は大きい。熊谷は次のように言う。
「『母ちゃんたちがいっつもうわさしてるさ。元々工夕町の女なんだからパンスケとかストリツプしててもしょうがねえって』たぶん、こんなふうにして、人の心のなかで差別の遺伝子は増殖していくのだと思う。子どもの世界は大人の世界とは分離、独立しているといっても、反面、大人社会の映し鏡みたいなところもある。心無い大人たちのうわさ話やひそひそ話が、実体のない見えない遺伝子ーミームーとなって子どもたちの心に刷り込まれ、ひそかに増殖していくのだ」
まさに当を得ている。部落差別は世代から世代へと刻印されていくのだ。それと自覚的に向き合わない限り、差別という甘い罠に落ちるのだ。世知辛い浮世をどう生きるか、読んで損はなし!