「大逆事件残照」⑫は、「気骨の新聞育んだ風土」をテーマに、「弱山絵入新聞」と「
牟婁新報」をとりあげ、大逆の時代に気骨のある新聞があったことを伝えている。まさに驚嘆に値すると言わねばならない。で、そのなかで、神社合祀反対論を張ったに稀代の博物学者・
南方熊楠が出てくる。まさに偶然だが、ちょうど神坂次郎著「縛られた巨人」を読んでいたのだが、この記事と重なる記述があった。
毛利柴庵、本名は清雅。熊楠より五歳下の明治五年新宮生まれ。幼時に父母を亡くし田辺の古刹、真言宗高山寺に預けられ、東京遊学ののち仏教的社会主義に傾倒して帰郷、高山寺任職になる。明治三十三年、田辺の有力者、小切間権右衛門、岡本庄太郎、奥野健太郎、近藤新十郎らの後援によって牟婁新報を発行。
この新聞は、田辺の町を中心にした一地方紙だが、毛利が東京遊学中社会主義者の片山潜や「平民社」の堺利彦、新仏教の高嶋米峰などと親交していたため、日露撃中から戦後にかけて、かれらの紹介で社会主義者、豊田孤寒や小田野声、荒畑寒村、そしてのちに大逆事件で処刑される唯ひとりの女性、菅野須賀子らがやってきて記者となり、毛利をはじめ、大逆事件の大石誠之助、成石平四郎(いずれも死刑)らが寄稿し、その自由奔放な論陣は世の注目を浴びた。
「知の巨人・ミナカタ」と「大逆の徒」が交錯する「牟婁新報」、その気骨には感服させられる。時代の波にしたたかに抗い、生きることとは何であるかをまざまざと示しているように思う。そして、何よりも18ヶ国語を自在に操る熊楠の類をみない才の発露と、天才ゆえの奇異なる生き様は、圧巻としか言いようがない。