私の行く手には少なからぬ山もあれば川もある。それをよけて通る道もなくはないだろうが、それは私の趣味ではないから、まっすぐに進むことしか考えない。というのも、人は自らの人生や生き方を選ぶことはできるだろうが、その選択の幅はそう広くはないと思うからだ。
今、ここに私が在ることは、いくつもの偶然の連なりの結果であることは間違いがないが、その一つひとつの偶然は、それこそまがうことなき偶然か?と思わざるを得ない。私を今ここに在らしめているのは、無数の偶然を貫く必然の結果ではないかと。
「天は二物を与えず」とは言うが、私が背負う「荷物」は誰が与えた訳ではなく、自ら背負い込んだというのが正しいが、それでも望んでも背負うことができない「荷物」もある。その意味では、時と場所と状況とが「その時」に「その人」を登場させるというのが歴史の法則であるならば、私ごときの者でもその末席に名を置くことは許されるのかもしれない。
だから、目の前にある課題・問題は他の誰でもなく、私に課せられたものであり、私が「解決」すべきものとしてある。それが、私が今ここに在る理由の一つでもある。