「解放新聞大阪版」(8月25日付)に、解放同盟大阪府連と橋下知事が8月7日に、「政策懇談」を行ったとの記事があります。それによると、知事は「私は、いわゆる同和地区という所でずっと育ってきた。同和教育に対する反発心もあったが、同和問題はとにかく解決したいという思い。力を尽くしてこの問題を真正面から取り組んでいきたい」とあいさつし、同和行政に対する基本姿勢については、「地区に特有の問題を解決しようとすれば、何らかの施策をしなければならないが、それが府民から見てわかりにくいものだと差別意識は解消できない」と答え、最後に、「都道府県の知事のなかで同和問題を一番知り尽くしていると自負している。考え方の違うところもあると思うが、ストレートに意見をぶつけさせてもらって、皆さんからも打ち返してもらうなかで、解決に向けてがんばっていきたい」と述べた、とあります。
何事にも動じず、自信満々の知事の姿勢は、解放同盟との懇談会でもいかんなく発揮されています。その根っこには、部落で育って、部落問題を知り尽くしているから、私がイチバンだという思いがあるようです。しかし、部落で育ったことと、部落問題がわかっていることとは同じではありません。部落問題をよく知っているという人が、いざとなったらひどい差別をするといったことは、珍しいことではありません。だから、部落でどのように部落問題を学び、どのような部落問題観を持ち、どこまでジブンゴトとしているかということこそが、大事だと思います。
人を引きつける話術は知事の得意技ですから、威勢がよくて、わかりやすい言葉はポンポンでてきますが、部落問題を解決したいという思いが本物かどうかを見きわめる必要があります。それは、知事のふるまいと、具体的な 政策・事業にあらわれてくるはずですが、これまでのところ、「さすが!」「なるほど!」と感じさせるものはありません。
「部落差別の根本は、『血』への差別だが、それはなくなってきている」「経済的困窮者があつまってきているところという外形的な差別に切り替わってきていると思う」と持論を展開、とも書かれていますが、私には、差別の根本はなくなった、あとは残りかすの問題だと言っているように聞こえます。知事にはそう写り、そう見えるのだと思いますが、本当にそうか?あまりに皮相的な捉え方のように思います。
人々の意識の奥底に眠る部落差別意識は、部落という地理的空間と人にまつわる系譜を媒介として受け継がれています。そして、偏見が偏見として生き長らえているだけではなくて、ことあるごとに更新されています。21世紀の現在もなお、部落差別が生き続けているのがその証左です。部落差別は日本社会の成り立ちと深く関わっているという視点を外してはいけないと思います。