8月も半ば、ぼちぼち秋の仕込みを考える時期だが、「サマーワーク」がまだ未消化だ。とにもかくにも、「困った人たち」に、顔をこちらに向けてもらわねば始まらない。「対話」が成立すれば、何とかなるはずだ。そう思いつつ、カレンダーを睨み、手はずを考える。
言うべき事、伝えるべき事は尽くした。関係者へのプッシュも怠りなし。あとは当事者が殻を脱ぐことができるかどうかにかかっている。すなわち、「判断ミス」や手続き上の「過ち」の認識にとどまることなく、あるいは、「つもりや意図はなかった」との自己防衛・責任回避のレベルではなく、「問題」の本質に向き合い、これを引き受けることができるかどうかだ。
当たり前のことだが、差別やいじめの多くは意図して、自覚して起こるものではなく、無意識・無自覚なふるまいの結果、引き起こされるものだ。そして、それはそれを引き起こすもの(原因や背景等)があって表に出てくる。何らの曇りもない鏡であれば、写ったものと実物とは寸分の狂いもないはずだが、鏡に歪みがあれば、そうはならないのと同じだ。
だが、人はまさか自分の鏡に歪みがあるとは思ってはいないから、「問題」をそこにリンクさせることには強い抵抗を示す。「過ち」があったとしても、もっと軽いレベルで処理したいと考える。しかし、目の前の「問題」は、そんなレベルでないことは、事の始まりからして明白だ。
「良薬は口に苦し」という言葉があるが、これは、「忠言は耳に逆らえども行いに利あり。良薬は口に苦けれども病に利あり」が短くなったもので、「自分のためを思った忠告は聞きにくいけれど、行動にはプラスになる。よい薬は苦いけれども、病気によく効く」という意味だ。苦いけれども、飲むしかないのだ。