19日、今年度1回目の「保育教育協議会」の全体会があり、校区の教員、保育士、児童館職員、保護者57人が集まり、「現場」からは、今年度の部落問題学習のプランおよびとりくみ状況などが、1時間半にわたって、それぞれから報告された。部落問題を地域との連携でしっかりデザインできているところ、模索中のところ、迂回せざるを得ないところなど、その実状はさまざまだが、こうして一堂に会して、識りあい、聴きあうことで、刺激と学び・触発につながればと思う。
さて、この日、フィナーレを飾ったのは
、「解放ジュニア」の狭山現地調査の報告だった。参加したおとなと子どもたちが前に勢ぞろいし、子どものうちで高校生1年生二人と中学2年生一人が感想を述べた。会場には、かつての担任や顔なじみの人がたくさんいる中、臆することも萎縮することもなく、堂々とした姿を示した。もちろん、本人たちは鼓動はドキドキ、手には汗だっただろうが、見る者の胸を熱くした。
かつてこうした光景があったろうか?と、ふと思った。そう、「狭山」で言えば、あの「同盟休校」に突入した早朝集会を思い出す。「宣言」する子どもたちと、それを見守るおとなたちの熱いまなざしがその場にもあった。そして、そのときの子どもが親になり、その子どもが今、目の前で現地調査の報告をしている。
世代をこえて、二つの場面が二重写しになるが、いささか趣は違う。部落問題や解放運動をとりまく状況が違うことはもちろんだが、何よりも子どもたち自身の向き合い方が違う。かつてのように、運動や組織が決めたことを背負うのではなくて、自分がどうありたいか、その思いによって、自分で選びとっている。意思と選択と行動とが自分のものであるがゆえに、その結果を引き受けることも自然だ。
しかし、思う。ここまで子どもたちが部落問題を自分の目線で見つめるようになった、しかも、部落問題を突き放して見る(相対化)ほどの質を持っていることに驚かされる。向き合うというのは、こういうことなのだと改めて思う。そして、そこにまで子どもたちが成長するに到ったのは、この間の、学校と地域との協働による部落問題学習の賜物だ。「部落問題をタブーにせず、部落の子どもの顔が上がり、未来に“夢灯り”を見出せる部落問題学習」「部落外の子どもが“自分ごと”としてとらえ、『どこで生まれ育ったかということで差別するのはおかしい』と実感できる部落問題学習」が確実に子どもを変えてきている。子どもは言う、「自分のことを隠さんでもいい」「マイナスに思わなくてもいい」と。当たり前のことだが、それを子どもたちが実感し、確信し、結果、心の扉を開くに到ったことが素晴らしい。
部落問題に逆風が吹き、片隅に追いやられているこの時代、①部落問題にとりくむ人の輪を広げること、②部落問題を切り口とする交流を通じて、人間関係を深めること、③切磋琢磨によって取り組みの厚みを増すことをめざして、集う人たちとともに、この夜の光景を、忘れ難いものとして刻み、さらに前に進みたい。