年度が変わっても、年に一度の大会が開かれても、あるいは人の入れ替わりがあっても、厳しい事態は変わらず、期待した議論は起こらず、新しい風は吹かず、閉塞感だけが強まる。そんな感覚が拭えないこの頃だ。
事態を憂えている人は、あちこちにいるはずだが、なかなか表には出てこない。だから、時折、自分は意識過剰なのかとすら思う。そして、心ある人は、いつしか疲れ果て、一人去りしていく。あとに残るのは、繊細な気配りを欠き、人間関係の機微に無頓着な人だけだ。かくして、再生も改革もかけ声だおれになり、死に至る病がピークを迎える。
いみじくも平松大阪市長が府連大会のあいさつで言ったが、部落解放運動も「同和」行政(教育)も、寒風吹きすさぶ冬を越えて「凍土」の中にある。大阪府の財政再建案の「同和」人権行政の「ゼロ査定」はその象徴とも言える。私の足下を含め、各方面に多大かつ致命的な影響をもたらすことは必死だ。だから、「反撃」が必要なことは間違いがないが、もはや組織や運動にその「体力」はないような気がする。
いわゆる「危機」に際しての対応は二通りある。過ぎ去るまでじっと待つか、身を晒して立ち向かうかだ。この間の「戦後最大の危機」を前者でやり過ごしてきたわけだが、それが致命的ともいえる結果を招いたと思う。機を見るに敏であらねばならないのに、あまりに鈍に過ぎ、再生への絶好の機会を自らつぶすという愚行を重ねた。「ピンチをチャンスに!」などと言葉遊びをする暇などなかったのだ。だから、今さら笛を吹いても踊る者はいない。バッシングをかわしたと思い、すくめた首を出してあたりを見回したら、風景は一変、そこには誰もいない。遅きに失したのだ。
厳しいこと、困難なことは私の足下でもたくさんある。同盟員もかつては200人をこえていたが、今は100人をきった。言うまでもなく、「特別措置法」が切れて、事業がなくなった結果だ。同盟員になって部落差別をなくすために運動することと、同和対策事業をうけることとは別だが、33年もそれが続いたこともあって、「運動=事業」という考えが身についてしまった。だから、事業がなくなれば、解放同盟に入っていることの「メリットはない」というふうに思ってしまい、やめることになる。そういう運動しかつくってこれなかったのだ。
大会のありようや支部の実情をみると、ためいきがいくつも出る。それでも部落差別がある限り、あきらめるわけにはいかない。そして、そんな私の思いと共振し、部落問題をジブンゴトとし、差別のない、人権のまちをつくる夢に向かって汗する人もいる。だから、常に自分の部落問題を見る目を養い、問題意識を進化させ、そんな人たちと刺激しあい、高まりあう関係をつくることに希望をつなぎたいと思う。