何度か書いてきたことだが、今時、部落問題に本気でとりくもうとする人は“奇特な人”であることは間違いがない。最近、学校の教員と話をする機会があって、そうした人は“絶滅危惧種”だと言った。それほどに、教育現場においても部落問題は埋もれている。
その背景には、いくつかの事情があることは確かだ。部落差別の実態が改善され、それとは目に見えなくなったことが一番大きい。かつては、「今日も机にあの子がいない」に代表されるように、目の前に部落問題があり、否応なしに対応を迫られる場面があった。あるいは、部落解放運動の進展のなかで、「部落民宣言」がとりくまれ、これまた否応なしに向き合わざるを得ない場面もあった。まさに、部落問題はそこにあったのだ。
しかし、21世紀の今日、誰もが「部落差別はいけない。私は差別しない」と言うようになり、部落問題が見えなくなったこととも相まって、部落問題は言葉の真の意味で「他人事」になった。だから、あえて触る者がいなくなったのは必然のなりゆきとも言える。
もちろん、部落の中でも、部落問題を自分ごととして向き合う人は数えるほどになり、その他大勢の人はやりすごして暮らしている。あえて意識しなくても済むようになってっきたという意味ではプラスなのかもしれないが、部落差別がなお生きている事実に変わりはない。だから、それが、いつ・どんな形で降りかかるとも限らないのが、これまた現実だ。
学校現場においては、事情はさらにきびしい。目の前に部落の子どもがいても、それに対応する術を知らず、手をこまねくというのが実情だ。むろん、その前提には教員自身の部落問題観があるのだが、それを持っている者はとなると、とても不安になる。大方は、「いまさら、部落問題なんて?」と思っているし、自ら手を染めるなんてことは思いもしない。
だから、絶滅危惧種は常に“孤高を極める”覚悟を要請される。それを承知で、妥協をすることなく、まっすぐに「夢」に向かって歩くことによってしか道は拓かれないのも事実だ。安易な妥協や譲歩は死に通じるからだ。だから、頑なと映ろうが、非妥協を貫くことが要請される。
問題は、絶滅危惧種の悪戦苦闘を涼しく眺めて終わるのか、そこに我が身を投じて“渦中の人”となるのかどうかだ。そこにおいて、それぞれの部落問題との距離が露になり、本気の度合いが示されることになる。ゆめゆめ、他人事と思うなかれ!