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人もの主だった主義者が逮捕された「赤旗事件」の報を聞き、東京に赴いた秋水は、当局の監視をかいくぐり、雑誌を秘密出版し、一矢を報いるが、それも続かず、刀折れ矢尽きていく。そして、菅野幽月とのフリーラブが同志からの批判を浴び、孤立無援になっていく。
集会やデモをすれば検束され、結社をつくれば解散させられ、新聞や書籍は発禁処分に罰金が繰り返され、社会主義者は身体の自由も精神の自由も奪われていく。しかし、思想は死なず、直接行動派は先鋭化していく。
1907年に海の向こう、サンフランシスコから発せられた「ザ・テロリズム」は支配者を震え上がらせ、一層の警戒心を呼び起こし、弾圧と圧殺に駆り立てた。「赤旗事件」は、手ぐすねを引いていた彼らの罠とも言え、それは「大逆事件」となって帰結していく。
一方、信州では熟練機械工の宮下太吉が密かに爆裂弾をつくり、人民が神と崇める天皇も普通の人間であることを明らかにするために、これを標的にする計画を練る。宮下と菅野、新村忠雄、古川力作の4人によるテロリズムの首尾はどうなるのか?
●「赤旗事件」(あかはたじけん) 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
明治後期の社会主義者に対する弾圧事件。錦輝館(きんきかん)事件ともいう。
1908年(明治41)6月22日、東京・神田の錦輝館における山口義三(ぎぞう)出獄歓迎会の終了まぎわ、幸徳秋水の直接行動論を支持する大杉栄、荒畑寒村ら一派の者が、議会政策派への示威のため「無政府共産」「無政府」の文字を白テープで縫い付けた2本の赤旗を翻し、革命歌を歌い、無政府主義万歳を叫び、場外に出たところ、旗を巻けと命ずる警官隊との間で乱闘となった。結局、大杉、荒畑、堺利彦、山川均、管野スガら16人が検挙された(うち2人は即時釈放)。
山県有朋系勢力はこれを大事件につくりあげ、社会主義取締りに比較的寛大であった第一次西園寺公望内閣を辞職に追い込み(7月)、第二次桂太郎内閣は社会主義取締りを強化する態度を打ち出した。8月29日東京控訴院は検挙者のうち10人に重禁錮2年半以下の重い実刑判決を下した。そしてこれが契機となり直接行動派内にテロリズムの傾向を生み、大逆事件の遠因をなした。[阿部恒久]