2016年も朗報を聞くことは叶わず、2017年に持ち越された。事件から53年を過ぎ、54年を迎えるが、果たして決着をみるのかどうか?誰もが大いなる関心を寄せ、今か今かと待っている。しかし、扉は動く気配がないままに、時間だけが過ぎていく。
なぜ?どうして?こんなに無罪の証拠があるのに!疑問と想いは募るが、裁判所はいつものように、何食わぬ顔をしてすましている。そう、それが奴らの正体だ。何を考えているのかと言えば、己の立場、身の振り方しか眼中にない。ただただ時間が過ぎるのを待っているのだろう。
門野の証拠開示勧告は画期的だったが、それ以降の裁判長はそれを引き継いでいると見せながら、自らは新たな判断をしようとはしない。あくまでも門野勧告の内側でノラリクラリしているだけだ。
その意味では「下山鑑定は」事態を動かす画期的なものだと思う。これは検察も裁判所も予想はしなかった鑑定ではなかろうか。だから、これを武器にして今こそ迫るべきだ。しかしながら、その動きは遅々として進んではいない。一旦は企画された「意見広告」も頓挫したままだし、情報発信もなされていない。
なぜ、この時期に攻勢的に仕掛けないのか?ありとあらゆる方策を駆使し、持てるものを総動員し、世論喚起をしないのか?もちろん、そんなことは承知なのだと思う。きちんとした理由、思惑、見通しがあるからこそ、なのだと思う。いや、そう思いたい。
個人的なことでいえば、2016年3月の解放同盟全国大会、4月の狭山全国活動者会議&住民の会全国交流会に参加し、私見を発言したが、その場では真摯で前向きな「答弁」があったが、変化は起こらずじまいだった。
弁護団の活動にせよ、解放同盟の闘いにせよ、それなりの展望を持って対応・方針が練られてのことだと思う。しかし、それらは「外部」にほとんど伝わってこない。これが決定的な弱点となっていると私は思っている。
「下山鑑定」は決定的な新証拠だが、それを活かすも殺すも、弁護団と解放同盟と私たちの取り組みにかかっている。今のままでは「歓喜の時」を迎えることは難しいと私は思う。何が足りないのか、何が必要なのか、2017年にその答えを出さねばならない。