小浜市(おばまし)は旧若狭国、福井県南西部(嶺南地方)にあり、ヤマト王権の日本海側入口として盛えて来た。小京都と呼ばれ、国宝や国指定の重要文化財が数多く立地し、"海のある奈良"と呼ばれることもあるし、鯖街道の起点でもある。そして、原発に関して言えば、小浜市は5度にわたる原発や原発関連施設誘致の動きを、その都度はねのけてきた歴史を持つが、原発15基に囲まれるという皮肉な現実を抱える街でもある。
駅には「御食国」(みけつくに)」の看板。古来、朝廷に「御贄(みにえ)」(「御食」:天皇の御食料を指す)を納めた国のことだそうだ。
駅前はさびれ感が漂っている。
目にとまった喫茶店で一服。
名物「でっちようかん」。
閉店した店の番をする貫禄のある猫。
目指したのは「杉田玄白記念病院」。
受付で案内を請い、展示資料を拝見する。玄白は江戸藩邸で生まれたが、幼少期を小浜で過ごした。部落問題学習でお馴染みの「解体新書」を書いた一人だ。
次に向かったのは「山川登美子記念館」。山川は1879年に小浜で生まれ、1895年に大阪のミッションスクール梅花女学校に入学。1900年、与謝野鉄幹が創刊した雑誌明星に歌が掲載され、鉄幹と与謝野晶子と知り合う。鉄幹を慕っていたが、親の勧めた縁組により帰省し結婚するも、翌年死別。1905年、晶子らと共著『恋衣』を刊行。1909年、夫から感染した結核で死去(29歳)。
記念館には、最後を過ごした部屋がそのままにあった。「白百合の君」と呼ばれた登美子の歌は、せつなく、やさしく、じわっと沁みてくる。
そして、遊覧船で奇岩・洞門・洞窟などが6kmに渡り続く若狭国定公園の「蘇洞門(そとも)めぐり」。なかなかのものだ。
駅への帰路、浜辺の「人魚の像」に行き合い、そこに記されている「八百比丘尼」が気になり、向かうことにした。
途中、整備された街並み通り。芝居小屋、鯖街道の起点を見学。
そして、ちょっと迷いながら、たどり着いた「空印寺」。ここが入定(にゅうじょう)の地だ。
「八百比丘尼」は800歳に達したとされたが、容貌は,15~16歳くらいの若い女性のように見えたという。若さを保っているのは,禁断の肉である人魚の肉あるいは九穴の貝(あわび)を食べたためであると伝えられている。手に椿の花を持っているが、北陸から東北地方の沿岸部には椿がまとまって茂る聖地が点在している。椿は春の到来を告げる花とみなされ、椿の繁茂する森は信仰の対象となっていた。旅をする遍歴の巫女が椿の花を依代にして神霊を招いたものと想像されている。八百比丘尼の別称は白比丘尼という。
どこの街にも歴史があり、人々のくらしがある。そして、それらは太い・細いは別にして、私(たち)の今とつながっている。その意味では、遠い世界のことではないのだと改めて思う。