●「週刊金曜日」7月15日(1096号)より
裁判は始まったばかりで、一審判決までどのくらいかかるのか、はたまた確定するまでは・・・、たとえ原告勝訴となったとしても、それはどんな意味を持つのだろうか?そんなことを考える。というのも、すでにデータはネット上で拡散し、不特定多数が入手し、「利用」できる状態にあるからだ。もちろん、裁判が無意味だと言っているわけではない。それはそれとして闘いつつ、この事件が持つもう一つの側面についての取り組みをすべきではないかということだ。
それは、部落であるのか部落でないのかについて、なぜ問題になり、人々は執拗に固執するのかということだ。それは部落差別がこの社会に生きている現実の反映なのだが、それにしてもなぜにここまでという思いがする。部落差別をほとんど知らないままに育った若い人が、自身の結婚問題で部落問題と出会うと、当初は「そんなん関係ない」と言いながら、家族等の反対にあうと、とたんにそれに同調してしまうということはよくあることだが、なぜに豹変するのかと。「知らない」者が容易に虜にしてしまう部落差別、恐るべし!
事件は、部落差別をめぐるそうしたありように竿をさすのではなく、増幅・強化する結果をもたらすと思う。その意味では、法廷で彼らとのバトルに終始しているわけにはいかないだろう。事件によって露わにされた部落問題の摩訶不思議さについて、広く問題提起をし、新たな議論を興す、そうしたことをやるべきだと思う。裁判では起こった事態を変えることはできない。それができるのは運動だけだ。