何と言っても沖縄は「基地の街」。観光バスで「嘉手納基地」の傍は通ったが、イマイチ実感は伴わない。そこで、事前にチェックしていた普天間基地のビュー・ポイントである「嘉数高台公園」に行くことにした。那覇バスターミナルから嘉数まで琉球バス、そして、歩く。「嘉数高台公園」は多くの犠牲者を出した沖縄戦の激戦地の一つでもある。
標高92メートルの丘をめぐって、日本とアメリカの数千人の兵士が命を落とした。アメリカ軍は、1945年4月1日に読谷村付近に上陸、3日後には中部一帯に進み、主力部隊は、さらに南を目指し、その先に、嘉数高台があった。圧倒的な物量のアメリカ軍を食い止めるために、トーチカ(分厚いコンクリー卜で固めた日本軍の陣地)づくりに嘉数集落の多くの住民、生徒が動員された(生徒は鉄血勤皇隊と呼ばれた)。戦闘は15日間続き、集落も戦いに巻き込まれ、住民の半数以上が亡くなったと伝えられている。
公園を入ると、保存された砲弾塀には生々しい弾痕の跡があり、階段を昇ると陣地壕やトーチカが往時のままに残されている。階段を昇りきると慰霊碑が建っている。韓民族出身者への慰霊碑「青丘の塔」には、「嗚呼ココ沖縄ノ地ニ太平洋戦争ノ末期カッテ日本軍タリシ韓民族出身ノ軍人三百八十六柱ガ山河ヲ血ニ染メ悲シクモ散華シ侘ビシク眠ッテオラレマス・・・」と刻印され、脇には「この塔にねむれる人は とつくにの えにしぞ深き みたまなりけり」との歌碑がある。「京都の塔」には、京都府の出身の将兵2,530名余りが戦死したので、ここに鎮魂と、戦争の悲しみが繰り返されないよう願いを込めて建てたとあり、激戦の様子を伝えている。
360度見渡せる展望台に上ると、宜野湾市が一望でき、かの普天間基地が眼下に広がり、市街地を引き裂くように居座っているのが見える。滑走路の右側にはクモが足を広げたような形をした物体がいくつも並んでいる。これがあのオスプレイのようだ。羽を閉じているので、形が違うが、おそらくこれだろう。
地元らしい人が何人か上がってきて、あちこち眺めている。市が設置した説明版には、基地の説明とともに、返還後の跡地利用計画も書かれている。
日曜日のせいか、人の動きもなく、基地は森閑としているが、これは見せかけであって、本当の姿ではない。基地は戦争と一つながりで、常に緊張をはらみ、即応体制にあり、その際に市民の生命や安全が顧みられることは期待できない。幾多の尊い犠牲を払った歴史に学ばず、軍事力に依存する愚を繰り返すのは、慰霊碑に眠る人々を足蹴にするのと同じだろう。