熊谷達也が「蝦夷」や「阿弖流為」をどう書いているのか、興味津々で読んだ。結論から言えば、“驚き桃の木山椒の木”で、ビックリ!ドッキリ!ガッカリ!だった。
物語の主人公は呰麻呂(あざまろ)だ。元は陸奥国伊治(これはり)村の蝦夷の族長だが、大和政権の陸奥支配に協力し,外従五位下を授けられ,上治郡大領に任ぜられた。しかし、同僚の牡鹿郡大領・道嶋大楯が、一門の道嶋宿禰(すくね)の権威を笠に呰麻呂を蝦夷出身者と侮蔑するのを恨み,かつその大楯を信任する按察使(あぜち)紀広純にも含むところがあり、宝亀11(780)年3月、広純と大楯を殺害するに至る。いわゆる「伊治公呰麻呂の乱」である。
話は呰麻呂の辿った足跡に沿って展開する。当時の蝦夷の中で呰麻呂の軍は圧倒的な強さを持ち、それゆえに、政権側も一目も二目も置かざるを得ず、朝廷にまつろわぬ荒蝦夷(あらえみし)を制するためには、その力に頼らざるを得ない。呰麻呂の尊大な見返り要求を幾度も呑む。
しかし、いつまでも、どこまでも我慢は続かない。密かに呰麻呂を亡き者にという企みが持ちあがるのは必然だ。が、それを察知した呰麻呂は、逆に大楯と広純の首を取り、朝廷の陸奥支配の拠点であった多賀城は焼かれて落城する。
これらはおおむねいわゆる「史実」と重なるが、本書で阿弖流為は呰麻呂の子として登場し、最後に父・呰麻呂を討つ。また、阿弖流為の盟友・母禮は、戦を司る巫女となっている。いかに「史実」が確定していないとはいえ、いささか荒唐無稽の感は否めない。現実感を欠き、物語の瑞々しさを奪ってしまっているような気がする。
また、呰麻呂およびその軍が、いとも簡単に人の命を奪うさまや人肉を喰らう場面など、そういう時代状況であったやもしれないが、考証に耐えうる記述とも思えないし、そうしたことを書き連ねることの意味を作者はどこに見出しているのかという疑問も覚える。
どういう設定で、何を書くのかは、作者の思考と好みに任せるしかないが、読後感が何ともよくない作品だった。