本文247ページには、原発をめぐる政財官学の癒着ともたれ合い、そして、検察と裁判所の露骨な介入と異論封じが、余すところなく記されている。原発推進は国策であり、それに反旗を翻すとどうなるか、空恐ろしい現実がそこにはある。
佐藤栄佐久氏をめぐる問題については、すでに多くの方が書かれているので、あえて記すことはないが、2004年12月22日、原子力委員会の「福島県知事のご意見を聞く会」に出席した際にこう言っている。「私にとって一番大切なのは、福島で万が一放射能漏れでもあったら、全部農作物も売れなくなるのですから、国民の目から見てどうか、という良識で判断しなければいけない」と。7年後、この危惧が現実のものとなる。
佐藤氏は元は自民党で、原発反対派ではなかった。しかし、事故対応をめぐる東電の安全意識の希薄さと責任感の欠如を目の当たりにし、県民の命を守ることを最優先し、庁内に専門的スタッフをそろえ、立地地域として政府や資源エネルギー庁、原子力安全委員会等に意見を言う。が、暖簾に腕押し状態が続き、「国策」そのものへの不信を強める。そして、増設やプルサーマルの実施を拒否するに至る。
一連の経過は、知事としてごく当たり前の対応で、県民からも支持を得、再選を重ねる。業を煮やした推進側は、知事の追い落としを目論見、収賄事件をでっちあげる。知事の支援者や親族などが、命が危機にさらされるような過酷な取り調べの果てに、「虚偽の自白」をするに至り、有罪となる。しかし、後に贈賄側の証人が「検察の利益誘導でうその証言をした」と証言し、事件がでっちあげであることを暴露する。
しかし、二審においては、収賄額ゼロ円と認定されたにも関わらず有罪という不可思議な判決が出され、2012年10月、最高裁もこれを追認する。なりもふりも構わないというのはこういうことを言うのだろうが、こんな裁判が許されるはずがない。そこまでして守らねばならないものとは何なのかと思ってしまうが、国策に異を唱える者は憲法や法の外にあるのだと言いたいのだろう。
目下、原発の再稼働に向かって規制委の審査が行われているが、佐藤氏も推進する側と規制する側との分離を強く求めていたように、果たしてどういう結果になるのか。新潟県の泉田知事が再稼働に慎重な姿勢を撮り続けているが、推進側にとっては目の上のタンコブとなりかけているように映る。
福島の事故は、政府の収束宣言が空しいくらい現実は厳しく、重たい。汚染水はとどまるところを知らず、海に流れ出ているし、「除染」も遅々として進まない。その一方で、事故の風化だけが進んでいるように思う。佐藤氏が言うところの「真実」を今一度、確かめ、原発とその政策の行方を考えるべきではないだろうか。