「解放新聞大阪版」第1950号(13.4.15)は、4ページ全部を使って大会の模様を報じている。1面では、午前の全大会の流れと、北口委員長の「ネットワークを活かし、100年に向けて発展を」とのあいさつが紹介されている。相変わらず「楽観的」でふわっとした感じを受ける。
2~3面では、午後からの全体討論での12名の発言が短く紹介されている。これまでは3会場に分かれての「分散会」のあと、最後に「全体討論」を行っていたが、会場や時間、規模の関係で、いきなり「全体討論」となったようだ。これを見る限り、部落解放同盟らしい討論にはならなかったようだ。若い人の発言が目立ったようだが、それはそれでいいが、部落解放運動の根幹にかかわる議論が興らないことが致命的だろう。これでは、提案された「新たな部落解放運動への挑戦」も絵空事になってしまいかねない。
4面は、書記長の集約と、「新たな部落解放運動への挑戦」についての北口委員長の紹介文だが、あえてコメントすることはない。
思うに、こうした大会の持ち方自体が無理なのではないか。一言でいえば、セレモニーになってしまっているのだろう。何のために大会を開くのか?ということがはっきりしているようで、実はしていないのだ。言うまでもなく、1年間のとりくみを総括し、向こう1年間の方針を決めるのが目的なのだ。だが、その目的を据えた大会となっているのかと問えば、そうとは断言できない。
あまりにもあっさりと議事が進行し、あっさりと終わる。そこで何が議論され、何が確認されたのかと振り返れば、はたと困惑するありさまではないだろうか。こうしたことを何度も繰り返してきた結果が今日のありように映し出されている。笛吹けど踊る者はいないのだ。どうしたら踊り人が現れるのか、笛を吹く者はしかと考えるべきだろう。