交通事故の加害者が妊婦であるからとの理由で、上司から匿名での発表を厳命されるが、納得のいかない三上は刑事部長に真意を問いただす場面がある。以下のようなやりとりだ。
「部長―妊婦であること以外に、何か名前を発表できない理由があるのでしょうか」
「ありますよ」
赤間はあっさりと認めた。三上の質問を待っていたかのようだった。
「匿名発表はスケジュールに乗っているんですよ」
スケジュール……?
「個人情報保護法案と人権擁護法案が中央で論議されているのは知っていますね」
「ええ」
記者の口からもよく飛び出す。メディアの規制に直結する悪法だ、許すまじ、と。
「マスコミは色々と難癖をつけていますが、自業自得、身から出た鋳です。事件が大きいとメディアスクラムで被害者にさらなる被害を与える。その一方で身内の事件は隠したり悪意的に小さく扱ったりする。そんな輩が、権力の番人ゾラをしてこちらを批判するなど厚顔無恥としか言いようがありません」
赤間は話をとめて唇にリップクリームを引いた。
「二つの法案はいずれ通ります。その次が匿名発表です。我が方が働きかけて政府内に犯罪被害者対策に関する検討会を作らせます。事件の被害者名を発表するかしないか、その判断は警察が行うといぅ文言を盛り込みます。被害者の名前に限ったこととはいえ、これを閣議決定させて御旗を得れば匿名発表はいくらでも拡大解釈が可能になります。入口から出口まで、つまりは記者発表のあらゆる場面において、我が方が主導権を握れるということです」
ようやく呑み込めた。赤間が強硬姿勢を貫く理由が。
匿名問題の対応は完全なる本庁マターなのだ。いや、ことによると赤間マターか。どこか得意げな口ぶりから察するに「検討会設置」や「閣議決定」の戦略は、赤間が本庁に戻って為そうとしている腹案なのかもしれなかった。
1989年と言えば、両法案が取りざたされていた時期で、さもありなんだ。