5月11日、大阪市は市政改革プランの素案を発表した。懸案のひとつになっている文楽協会への補助金(年5200万円)のカットについては、試案通り「今年度から25%削減」となっている。大阪日本橋の「国立文楽劇場」に足を運んだことがあるが、大阪梅田から地下鉄を二本、乗り継がねばならなかったこと、劇場周辺には食事をとったり、お茶を飲む店も皆無で、街並みは、芝居見物の華やぎとはおよそ無縁の雰囲気だったことなどが思い出される。劇場内の飲食コーナーも使い勝手が悪く、「国立とはこんなものか…?!」と、半ば、興ざめの心地であったことも記憶に新しい。
しかし、ひとたび幕が開けば、「三味線」「浄瑠璃」「人形遣い」に「いのち」を吹き込まれた「人形」は、光と影の微妙な変化によって生じる“陰影”をその横顔に宿しながら、恥じらい、歓喜に酔いしれ、憤怒の形相を浮かべ、許されない愛に身をもだえ、嘆き、手に手をとって恋の道行―死出の旅路―へと急ぐのであった。
「生身の人間ではない」ことは百も承知しながら、それでもなお、「うつむき、己がさだめのむごさに耐えに耐えてきた遊女お初」が、キッと正面を見据えた瞬間に浮かべる「覚悟の表情」のすごさに、ブルッと身震いしたし、愛する男と死出の旅路に向かう際の「恍惚の表情」に、不覚にも、熱いものがこみ上げてきた。―それは、客席から舞台までの「見事に計算された距離間」と、「遣い手」にあやつられるお初の白い顔の「絶妙の角度」が、この世の“不条理”と人間の“業の深さ”を、生身の人間を超えて語りかけてきた瞬間であった。
現在の「文楽」は、植村文楽軒という人が、寛政の頃に、大坂の高津橋・南詰(現在の大阪市中央区)で興業をおこなったのが、始まりであるという。けれども、「文楽」は、決して平たんな道を歩んで、ここに至ったのではない。
敗戦の色が濃くなってきた1945年。3月13日夜半から14日未明にかけての、いわゆる「大阪空襲」で、(すでに、大阪で唯一の文楽劇場となっていた)「四ツ橋文楽座」が焼け落ちてしまった。けれども、わずか4か月後の、同年7月11日には、早くも、中之島の「朝日会館」を借りて、「復興:第1回公演」が開かれている。それ以後も紆余曲折はあり、劇場は「朝日座」から「国立文楽劇場」へと、所と装いを変えながらも、まさに「浪速っ子の心意気の象徴」として、「文楽」は生き続けてきた。
それは、大阪の「文化の華」なのであり、かりそめにも一個人の見解―「面白くなかった・二度とここに来ようとは思わない」などの意見で(意見を持つのは自由だが)―、侵されてはならない筈である。
話は変わるが、私の友人は「大飯原発」の再稼働に反対して、「福井でのデモに、大阪から参加してきた」と語ってくれた。―[「政治をつかさどる者の暴挙」に対して、「Stop!!No!!」の声をあげ、意思表示をするために当該の地に集うこと] が、「デモンストレーション」であるなら、この7月は、大阪日本橋の「国立文楽劇場」に「一人ひとりがチケットを買って入場してはどうだろうか。吉田簑助が遣う『曽根崎心中』の“天満屋お初”と出会い、“お初・徳兵衛の道行”に酔いしれ、堪能すること」こそ、大阪の文化を守り、次の世代に伝えていくための、「私たちのデモンストレーション」ではないだろうか。―これは、「文化を守るデモ」である!
67年前のあの戦争で、劇場は燃え尽きても、「文楽を観たい!」、「文楽の灯を消してはならない!!」という人々の思いが、4か月後の奇跡的な上演を成功させたことを、今、私たちは改めて胸に刻み直し、一人ひとりは非力であっても、67年ぶりの「大阪空襲」ならぬ「大阪市長」による暴挙から、「大阪の文化の華」を守っていきたいと思う。
7月は、大阪日本橋の「国立文楽劇場」で「文楽」を観よう!それが、私たちが「大阪の文化の華」を守る、デモンストレーションです。