縁があったのか、この間、山頭火終焉の地を訪ねたところだが、3月25日の毎日新聞が山頭火が報じられ、タイミングのよさにびっくりだ。松山と言えば、道後温泉や坊ちゃん、正岡子規、松山城と思い浮かぶが、山頭火はなかなかだろう。
路面電車が走る交通利便な地ではあるが、終の棲家となった「一草庵」は便利なところにはない。道後温泉から、熱多津の道を通り抜け、護国神社をめざして歩くしかない。それは目立たず、ひっそりと静かにあった。しかし、運営管理をしている人たちは、とても親切で、山頭火のことを熱く語ってくれた。
何をおいても、松山で俳句と言えば子規だ。間違っても山頭火などという名前は出てこないようだ。たった10か月しかいなかったのだから仕方がないが、彼はここで「仕事」をし、「作品」を残した。その生き様は、作風と同じく自由奔放で、それが魅力でもある。
種田山頭火(たねだ さんとうか)、1882年(明治15年)12月3日 - 1940年(昭和15年)10月11日)は、戦前日本の俳人。山頭火と呼ばれる。自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人。1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝(こうほ)と改名。本名・種田正一。
現・山口県防府市大道の大地主の出身。11歳の時、母が自殺。旧制山口中学(現山口県立山口高等学校)から早稲田大学文学部に入学したが、神経衰弱のため中退、帰省し療養の傍ら家業である造り酒屋を手伝った。1910年(明治43年)結婚し一児をもうけた。1911年(明治44年)荻原井泉水の主宰する自由律俳誌『層雲』に寄稿。1913年(大正2年)井泉水の門下となる。1916年(大正5年)には、『層雲』の選者に参加。
その後、家業の造り酒屋が父親の放蕩と自身の酒癖のため破産し、妻子を連れ熊本市に移住した。古本屋を営むがうまくいかず、1920年(大正9年)離婚。妻子を捨てて東京へ出奔した。その後弟・二郎が自殺。1923年(大正12年)関東大震災に遭い熊本の元妻のもとへ逃げ帰った。熊本市内で泥酔し、路面電車を止めたところを顔見知りの記者に助けられ、市内の報恩禅寺(千体佛)住職・望月義庵に預けられ寺男となった。1924年(大正14年)得度し「耕畝」と改名、味取観音堂の堂守となる。
1925年(大正15年)寺を出て雲水姿で西日本を中心に旅し句作を行ない、旅先から『層雲』に投稿を続けた。1932年(昭和7年)郷里山口の小郡町(現・山口市小郡)に「其中庵」を結庵したが、体調不良から来る精神不安定から自殺未遂を起こす。その後東北地方などを旅した後、1939年12月15日、松山市御幸寺境内の一草庵に入った。翌年、一代句集『草木塔』を発行し、10月11日、59歳で脳溢血で亡くなった。